2006年7月23日 (日)

コミュニケーションの宿命?

人間というのは、事態にまじめに向き合おうとして文章を書くと、どうしても「きっちりした」文体になりがちです。

場合によっては、相手にとって、それが押し付けと受け取られることさえあります。
まして、メールなどでは、読む時点での気分がたまたま悪かったり、または他の理由で多忙だったりするときはなおさらでしょう。
かといって、あまり丁寧すぎたり、逆に軽い書き方をすると、慇懃無礼とかバカにしていると取られる恐れがあります。

下の例を読んでください。

例:

■きっちりした書き方
「例の件について、詳しい説明をお願いします」(押し付けている感じ)

■丁寧な書き方
「例の件につきまして、詳しくご説明戴けると幸いに存じます」
(下手に出て、かえって相手を操作している感じ……など)

■軽い書き方
「例のこと、もっと詳し〜く説明してねっ!(^_^)」
(事態を軽く見ている感じ、バカにしている感じ……など)

注)カッコ内は、必ずこう受け取られるという意味ではなく、相手が悪くとった場合を想定しての私なりの注釈です。

だいぶ前のことですが、ある文芸の同人誌の中で、先輩が書いた文章に対して私が批評を寄せたことがあります。その人は、その世界では大御所なので、私は精いっぱい心を込めて丁寧な言葉を使いました。

ところが、発表された私の文章を読んだ他の会員から、「あの文章(私が書いた文章)の慇懃無礼な表現が気になった」というような感想をいただきました。
当の本人(先輩)からは、「ご意見をありがとうございました」という言葉をいただいたのですが……。

想定していたのとは全く逆の思いがけない反響に、私は驚きました。

しっかり気を遣って書いても、こんなことが起こるくらいですから、気軽に書いてしまうメールの場合は、もっといろいろなことが起こっても当然のような気がします。

では、これが、印刷物やメールに特有のものかといえば、必ずしもそうでもないと思います。
面と向かっての対話の場合は、また違った種類の難しさがあります。
これは、人によってそれぞれ違った感じ方をするという人間の特性上、どんな媒体においても、ついて回る宿命でしょう。さらに、同じ人でも、時と場合によって違った感じ方をしますから複雑です。

しかし、これらのリスクを抱えながらも、それに見合う、またはそれ以上の価値や喜びを感じられるから、私たちはコミュニケーションをするのでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月18日 (火)

対立場面こそ練習のチャンス!

 「相手が言いたいことの要点を相手に言葉で確認する」という〈対話法〉の原則が本当に役立つのは、、意見が異なる人と感情的な言い合いになったり、誤解が発端で人間関係がぎくしゃくしはじめた場面です。言い換えれば、多くの人が苦手とする場面で〈対話法〉が役に立つわけです。

 ところが、想像するだけでも分かると思いますが、上に書いたような場面で〈対話法〉を使うことは、実際はかなり難しいことです。
 なぜかと言えば、上記のような場面では、双方が感情的になっているので、「相手の言いたいことを確認する」どころか、相手の言葉を冷静に聞くことさえ難しくなっているからです。

 人間は、感情的になると、相手の言葉が耳に入ってきません。
 〈対話法〉の練習をしてみると分かるのですが、冷静な場合であっても、相手が言いたいことを受けとめることはなかなか難しいのですから、感情的な時はなおさらです。

 しかし、何度も言うように、そのような時にこそ〈対話法〉の原則が役に立つわけですから、いざというとき使えるように練習をしておくのです。それも、できれば、実際の対立場面での練習が重要です。

 〈対話法〉研修会では、はじめから、〈対話法〉が共通の約束事として進められますから、比較的冷静な状態を保ったまま練習ができます。
 しかし、そのような場でも、ときどき対立場面が発生します。それが練習のチャンスになります。

 だいぶ前のことですが、私が講師をしているカウンセリング勉強会で、こんなことがありました。
 私がカウンセリングについて説明をしていると、ある人が、「私はカウンセリングの理論は間違っていると思う」と言い出しました。

 当時の私は、まだカウンセリングの指導を始めて間もないころだったので、突然反論をされて焦りました。そして、なんとか分かってもらおうと、カウンセリングの理論を詳しく説明しました。それによって、なんとかその場は治まったのですが、なんとなく嫌な気分が残りました。

 いま考えると、それは、カウンセリングや〈対話法〉を実際に練習(訓練)する絶好のチャンスだったのです。
 つまり、相手の言葉に反応して説明で応じるのではなく、まずは、相手が言いたいことを確認すべきだったということです。
 また、私が確認するだけでなく、他の参加者の皆さんにも「確認者」の立場になっていただくことも可能でした。
 このように、現実の対立場面で「確認」の練習することは、何よりも大切なことです。

 それ以降も、このように対立する場面を、私は何度も経験しています。そして、それらを確認技法を使ってクリアしてきました。また、参加者の皆さんにも、「確認」が役立つことを目の当たりに体験していただきました。

 あるとき、私がメンバーとして参加していたメーリングリストでトラブル(感情的な批判の応酬)が発生しました。発端は、わずかな言葉の行き違いです。そのうちに治まるかと思って様子を見ていたのですが、それどころか、なんとなく危ない雰囲気になってきました。

 そこで、最悪の状態にならないうちに、私が、「お互いに、自分が言いたいことを書くのを一旦やめて、相手が言いたいことを確認してみてください」と仲介のメールを送ったら、それをきっかけに、即座に議論がかみ合ってゆきました。

 このように、実際の対立間面で〈対話法〉を使ってみることが、最も効果がありますし、一番の練習にもなります。
 慣れないうちは、〈対話法〉に熟練している第三者に仲介してもらうことも必要ですが、慣れてくれば、当事者同士でできるようになります。

 今回書いたことは、〈対話法〉を実際に日常で使えるようになる手順として、たいへん重要なことです。そして、その一つの方法として、研修会などの冷静な場面で、「相手が言いたいこと」をつかむ練習が必要なのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年7月14日 (金)

「より」と「から」の使い分け

 突然ですが、次の文章、意味が分かりますか?

例1:

> 私の夢は、月より火星を見ることです。

 最近、私が気になっているのは、本来なら「から」という格助詞を使った方が良いと思えるところにまで、「より」という語句を使う人が多くなってきたことです。

 意味が明確ならまだいいのですが、中には、書いた本人が分かっているだけで、読み手には意味が分からないという文章に出会うことも珍しくありません。

 例1は、おそらく、「月から火星を見る」という意味だということが想像できますが、もしそうなら、「より」より「から」を使ってもらった方が意味がはっきりしますね。

 でも、もしかしたら、この人は月より火星の方に興味があるので、天体望遠鏡を買ったら、まずは火星を見てみたい、という意味なのかもしれませんが……。

 では、例1よりも現実にありそうな次の例はどうでしょうか?

例2:

> この本は人気があるので、12月より多くの部数が発売されることになりました。

 さて、この文章を書いた人は、「12月に発行された部数よりも多くの部数を発行することになった」と言いたいのか、「12月から多くの部数を発行することになった」と言いたいのか。

 従来は、比較的、「より」は than、「から」は from という意味で使い分けがされていたと私は思うのですが、最近、その使い分けが不明確になっています。

 さらに、本来なら「から」と言うべきところにまで「より」が使われるようになっています。これは一つの流行なのでしょうか?

 ところで、「より」は少なくとも2つの異なる意味がありますので、もともと誤解の温床(?)になりやすい語句です。

 法律関係に詳しい知人から聞いた話ですが、法律で使う用語は、出来るだけ誤解が少なくなるように決められているそうです。

 たとえば、「この法律は〜より施行する」とは決してしないで、「この法律は〜から施行する」と表記するとのこと。

 日常の会話や文章では、法律ほどの精確さは要求されないにしても、誤解を防ぐために、「複数の意味をもつ表記」は可能なかぎり避けたいものです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)