2010年12月 1日 (水)

「東京新聞」と「中日新聞」の朝刊で〈対話法〉が紹介されました

 今日、12月1日は、知人の妹尾信孝さんとの共著『輝いて生きる』(文芸社)が出版された日です。ちょうど、10年前のことです。
 奇しくも、今日(12/1)、「東京新聞」と「中日新聞」の朝刊の「セカンドらいふ」欄で、浅野が16年来提唱している〈対話法〉が紹介されました。地方紙以外での紹介は初めてです。
 タイトルは、「達人に聞く夫婦の会話術---『確認』織り交ぜスムーズに」。11/23に開催された、「対話の会」in東京の写真も掲載されています。
 東京新聞の、こちらのサイトでも、記事が読めます。

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2007年3月29日 (木)

脱線事故の車掌証言にみるコミュニケーションの課題

 2005年4月に起きたJR福知山線の脱線事故(兵庫県尼崎市)で、事故車両に乗務していた車掌が応じた新聞の取材内容が公表された。

参考・引用記事:3月29日3時2分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070329-00000017-mai-soci

 コミュニケーションを研究している私が特に注目したのは、「事故直前に駅でオーバーランした距離の過少申告について、運転士と口裏合わせをした際、乗客への対応で車内電話を途中で切ったことについて『運転士は、(自分が)怒ったと思い、不安だったかもしれない』と語った」という部分である。

 車掌が運転士と電話で会話をしている途中で、男性客からおわび放送を求められたため、運転士との電話を切ったというのである。そのことについて、車掌は、「高見運転士は(口裏合わせの求めに自分が)怒ったと思ったのかもしれない。(切る前に)『まけるよ』とは言っておらず、不安だったかもしれない」と語っている。

 ここでは、「口裏合わせの是非」や、「列車停止装置の設置などの問題」は置いておくが、車掌が語った言葉の中には、コミュニケーションにおけるさまざまな課題が示されていると考えるので、その中のいくつかを次に示す。

○緊急時のコミュニケーションありかたの問題。
○不完全なコミュニケーションに起因する「思い込み」「誤解」などの問題。
○不完全なコミュニケーションへの対処法についての知識とスキルの習得の問題。

 コミュニケーションという観点から考えると、これらの問題が一つのきっかけとなって、大きな事故が起こってしまったと言えよう。

 そして、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会による事実調査報告書では、運転士が車掌から指令への報告内容に気を取られていたため、ブレーキ操作が遅れた可能性があることを示唆している。

 人間の対応能力を超える事態の渦中においては、この事故における運転士や車掌でなくても、誰でも同じような状況に置かれたら、同じような対応をしてしまう可能性が高いであろう。したがって、これらの事故への対応を、個人の責任や人災というレベルで終わりにしてしまうのではなく、どのようにすれば今後に活かせるのかを考え、実行していくことが求められている。
 そして、これらの課題に対して少しでも実効性のある具体的な改善を推し進めたいとの思いで、私は〈対話法〉の普及を提唱しているのである。

 話を戻そう。
 2年近くたっても事故の遺族らに謝罪していない点について、車掌は、「謝りたい気持ちでいっぱいだったが、事故を防げなかったことをうまく説明できるかわからず、そのうち外で人に会うことさえ怖くなってしまった」と述べている。

 この車掌に限らないことであろうが、一般論として、大きな事故の前後の状況や、その時、どのようなことを考え、どのような判断をしたのかということを客観的に語ることは難しい。
 大きな死亡事故の場合は、それに加えて、遺族や負傷者から責められても仕方のない責任のある立場にある者としては、それらの人たちと向かい合って、きちんと謝罪できるだけの精神力をもつことは常人では難しいことであろう。

 このような場においては、感情的な発言のやりとりになってしまうことが多い。そして、それによって、双方が傷ついてしまう可能性が高いのである。これが二次被害である。
 特別なコーディネーターがいない状況で、普段の会話で行なっているように、お互いが自分の言いたいことだけを言い合うだけでは、より傷を深くしてしまう可能性が高いのである。

 このような場において、少しでも冷静に、意義のある話し合いをするためには、原則として、双方が相手の言い分をよくきいて(傾聴)、自分の理解した内容が合っているかどうかを相手に確かめて(確認型応答)、それが合っていたことが確認されてはじめて、自分が言いたいことを言う(反応型応答)というプロセスを踏むことが重要なのである。

 この方法に近いことは、これまでにも、専門家による、さまざまな相談、調停、紛争解決の場面で実践されてきたことではあるが、一般の人が使える「簡略化したスキル」として明文化したのは、〈対話法〉が初めてのことである。

 ところで、日本航空やJR西日本が、一連のトラブルや事故の対策の一つとして、社内での「確認会話」を導入したという報道後、これと関連する「確認型応答」を提唱する対話法研究所のホームページへのアクセス数が増えている。

 これまでも、私たちは無意識あるいは意識的に「確認」をしていたのであるが、今後は、「より意識的に」確認をするスキルと習慣を身に付けることが、コミュニケーションの不全に起因するトラブルや事故を防ぐ第一歩であると考える。

 もちろん、コミュニケーションの改善だけであらゆるトラブルや事故を防ぐことは不可能である。また、人間にはミスやエラーがつきものであるから、完全なコミュニケーションというものもあり得ない。その点は、フェイルセーフ機能などのハードウエアの改善や、組織改革や社員研修の充実など、さまざまな改善が必要である。
 しかし、忘れてならないことは、これらの改善をする全てのプロセスにおいて、関係者相互の「コミュニケーションの質」が結果を左右するということである。

 対話法研究所としては、コミュニケーションの改善によって防止できるトラブルや事故を一つでも少なくするために、コミュニケーションにおいて重要な役割を果たす「確認型応答」の有効性をアピールし続けていきたい。

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2006年10月31日 (火)

「直江津捕虜収容所」跡地を訪ねて

 新潟県上越市には、〈対話法〉の普及に尽力している仲間が大勢いる。

 昨年11月、新潟市で開かれた「日本コミュニケーション学会・東北支部」の研究大会に、〈対話法〉ワークショップのファシリテータとして招かれた。その翌日、「上越〈対話法〉研究会」の仲間の案内で、直江津捕虜収容所跡地にある「平和記念公園」に立ち寄った。

 太平洋戦争の開戦から1年後の昭和17年12月に、直江津捕虜収容所(東京俘虜収容所第4分所)が設置され、オーストラリア兵をはじめとする連合軍の捕虜が収容され、最大で700人余りの捕虜が近隣の工場での労働を強いられていたということである。
 その後、戦局の悪化によって、捕虜に支給するための食料や医療品が不足するなか、昭和18年に異常寒波が襲来し、厳しい冬を越すことができなかった60人以上の捕虜が、栄養失調や病気によって死亡するという悲惨な出来事が起こってしまったのである。

 昭和20年8月15日に日本は敗戦をむかえたが、その後、日本に進駐してきた連合軍が戦争犯罪を追及するなかで、元直江津捕虜収容所の看守や軍属などの職員も容疑者として逮捕された。そして、60人以上の捕虜を死亡させたという罪で、看守のうち8名が処刑されたのである。

 この、さらに不幸な結末に至った要因の一つとして特に私の印象に残ったのが、当時の捕虜による証言である。
 たとえば、看守が捕虜の脚気の治療としてお灸をしたことが「体に火を押し付けられた」と証言され、戦時中の食糧難の中で、捕虜のためにと必死になって調達し食事に出したゴボウが、「木の根っこを食べさせられた」とされ、戦犯の証拠とされてしまったのである。

 日本と西洋の文化や風習の違いに起因するこれらの「誤解」が、直江津捕虜収容所の戦争犯罪容疑の証拠として採用されたという歴史的事実は、「誤解を防ぐコミュニケーション」を提唱する私の心に強く残った。

 現在、直江津捕虜収容所の跡地は公園となっており、敷地内には当時の資料を展示する資料館がある。また、平和のモニュメントと石碑が建立されている。
 さらに、平和を願う「上越日豪協会」などが中心となり、市民レベルでオーストラリアとの交流が続けられている。

■参考になるページ
「ささやかな国際交流のぺえじ」

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2006年9月12日 (火)

確認が嫌がられる場合(1)

このブログでは、これまで、〈対話法〉における「確認型応答」は相手に好感を与えるということを主に述べてきました。

つまり、相手の発言に対する確認の言葉が合っていれば、話し手は、嬉しさとともに、さらに自分の気持ちがはっきりします。
また、仮に確認の言葉が違っていても、違いが明確になることによって、自分の気持ちが見え始めます。
いずれにしても、確認型応答は、話し手本人にも、聞き手にも益になることです。

しかし、これにはいくつかの例外があります。それは、話し手が自分の気持ちを相手に気づかれたくない場合か、話し手自身が自分の気持ちに気づきたくない場合です。

このことについて、今回と次回にわけて説明します。
はじめは、「自分の気持ちを相手に気づかれたくない場合」です。

わたしの経験から言うと、確認されることを嫌うのは、自分の発言に自信がない人か、自分の発言の趣旨をはっきりさせたくない、なんらかの意図がある人です。
つまり、なんとかごまかして(ちょっと表現は悪いですが)その場を収めたい人です。

例をあげて説明します。

まずは、自分の発言に自信がない人;

★権威ある立場にある人が、自分でもあまり確信がもてないことを思わず言ってしまったが、それを今さら取り消すわけにもいかず困っているとき。

次に、自分の発言の趣旨をはっきりさせたくない人;

自ら発言しているのに、なぜ「はっきりさせたくない」のかという理由はいろいろあるでしょう。たとえば以下のような場合です。

★いやいや言わされている場合(国会での参考人質疑など)や、立場上発言せざるをえない場合(不祥事に関する謝罪の記者会見など)など。

★相手をだまして自分だけ利益を得ようとしている場合。

などがあります。もちろん、このように特別な場面でなくても、わたしたちの日常には、多かれ少なかれ、これに似た心境(たとえ悪意はなくても)になる状況があると思います。

このような条件下では、わたしたちは、できるだけあいまいなまま事を済ませたいという気持ちになります。つまり、相手から「確認」(または質問)されることを避けたい気持ちになるわけです。

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2006年7月31日 (月)

省略されたコトバ

わたしたちが会話をするとき、また文章を書くとき、かならず省略という作業(普段は無意識ですが)をおこなっています。
言わなくてもわかるだろうと思われることは省略されます。逆に、自分が強調したいことや、説明しないと相手がわからないのではないかと思えるところはコトバにします。
 
聞き手は、その省略されたコトバを適当に補いながら話を理解していきます。
そこで、話の省略部分をうまく復元できれば「理解」になりますが、話し手の意図と違ったコトバで補ってしまうと「誤解」になります。

ある市民活動をしている友人からこんな話を聞いたことがあります。

あるとき、遠方から講師を呼んで講演をしてもらったのですが、帰りがけに、その講師が、
「例会にはいつもこれくらいしか集まらないのですか?」
と言ったそうです。

友人は、せっかく遠くから講師が来たのに、参加人数が少なくて気を悪くしたのではないだろうかと、心配そうにわたしに話してくれました。

ここで、友人がなぜそう受け取ったのかを、わたしなりに想像してみます。

友人は、一所懸命に活動をしているにもかかわらず、例会への参加者が少なくて、常々悩んでいました。
それで、講師のコトバ、
「例会にはいつもこれくらいしか集まらないのですか?」に、
「せっかく遠くから来たのに残念だ」
というコトバを補ってしまったのでしょう。

しかし、わたしは、この話を聞いたとき、そうは思いませんでした。
というのは、参加者が少ないことはその講師も了解済みだということを、友人が講演を依頼した時点で、すでにわたしは聞いていたからです。

ですから、講師が言ったコトバは、
「一所懸命に頑張っているのに、残念ですね。だんだんと活動が広がっていくといいですね」
という、友人に対する「励ましのコトバ」だった可能性が高いのです。

講師は、友人に対して、あくまでも人数を聞いただけであり、自分の気持ちは言っていません。つまり気持ちが省略されています。なぜ省略したのか、理由はわかりませんが、「言うまでもなく明白だ」、と思ったか、または、「たんに言いにくかった」のでしょう。

この程度の省略は、わたしたちの毎日の生活のなかで日常茶飯に行なわれます。

ところで、コトバを補うときは、善かれ悪しかれ、聞き手の「先入観」や「心理状態」が影響します。これは、人間のコミュニケーションではやむを得ないことでしょう。

ですから、大事なことは、「コミュニケーションではこのような現象が常に起こっているのだ」ということを忘れないことです。そして、特に重要な対話場面では、相手の気持ちを確認することが必要です。
これが、わたしが〈対話法〉を薦めている理由の一つです。

〈対話法〉でいうところの「確認」は、言い換えれば、
「あなたの話を、わたしはこのようなコトバを補って聞きましたが、それでいいですか?」という確認作業のことなのです。

今回の例でいえば、確認の言葉は、

◎人数が少ないので、残念だと思っているんですね。
◎せっかく来たのに、人数が少なくてがっかりしているんですね。

などになるでしょう。

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2006年7月23日 (日)

コミュニケーションの宿命?

人間というのは、事態にまじめに向き合おうとして文章を書くと、どうしても「きっちりした」文体になりがちです。

場合によっては、相手にとって、それが押し付けと受け取られることさえあります。
まして、メールなどでは、読む時点での気分がたまたま悪かったり、または他の理由で多忙だったりするときはなおさらでしょう。
かといって、あまり丁寧すぎたり、逆に軽い書き方をすると、慇懃無礼とかバカにしていると取られる恐れがあります。

下の例を読んでください。

例:

■きっちりした書き方
「例の件について、詳しい説明をお願いします」(押し付けている感じ)

■丁寧な書き方
「例の件につきまして、詳しくご説明戴けると幸いに存じます」
(下手に出て、かえって相手を操作している感じ……など)

■軽い書き方
「例のこと、もっと詳し〜く説明してねっ!(^_^)」
(事態を軽く見ている感じ、バカにしている感じ……など)

注)カッコ内は、必ずこう受け取られるという意味ではなく、相手が悪くとった場合を想定しての私なりの注釈です。

だいぶ前のことですが、ある文芸の同人誌の中で、先輩が書いた文章に対して私が批評を寄せたことがあります。その人は、その世界では大御所なので、私は精いっぱい心を込めて丁寧な言葉を使いました。

ところが、発表された私の文章を読んだ他の会員から、「あの文章(私が書いた文章)の慇懃無礼な表現が気になった」というような感想をいただきました。
当の本人(先輩)からは、「ご意見をありがとうございました」という言葉をいただいたのですが……。

想定していたのとは全く逆の思いがけない反響に、私は驚きました。

しっかり気を遣って書いても、こんなことが起こるくらいですから、気軽に書いてしまうメールの場合は、もっといろいろなことが起こっても当然のような気がします。

では、これが、印刷物やメールに特有のものかといえば、必ずしもそうでもないと思います。
面と向かっての対話の場合は、また違った種類の難しさがあります。
これは、人によってそれぞれ違った感じ方をするという人間の特性上、どんな媒体においても、ついて回る宿命でしょう。さらに、同じ人でも、時と場合によって違った感じ方をしますから複雑です。

しかし、これらのリスクを抱えながらも、それに見合う、またはそれ以上の価値や喜びを感じられるから、私たちはコミュニケーションをするのでしょうね。

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2006年7月18日 (火)

対立場面こそ練習のチャンス!

 「相手が言いたいことの要点を相手に言葉で確認する」という〈対話法〉の原則が本当に役立つのは、、意見が異なる人と感情的な言い合いになったり、誤解が発端で人間関係がぎくしゃくしはじめた場面です。言い換えれば、多くの人が苦手とする場面で〈対話法〉が役に立つわけです。

 ところが、想像するだけでも分かると思いますが、上に書いたような場面で〈対話法〉を使うことは、実際はかなり難しいことです。
 なぜかと言えば、上記のような場面では、双方が感情的になっているので、「相手の言いたいことを確認する」どころか、相手の言葉を冷静に聞くことさえ難しくなっているからです。

 人間は、感情的になると、相手の言葉が耳に入ってきません。
 〈対話法〉の練習をしてみると分かるのですが、冷静な場合であっても、相手が言いたいことを受けとめることはなかなか難しいのですから、感情的な時はなおさらです。

 しかし、何度も言うように、そのような時にこそ〈対話法〉の原則が役に立つわけですから、いざというとき使えるように練習をしておくのです。それも、できれば、実際の対立場面での練習が重要です。

 〈対話法〉研修会では、はじめから、〈対話法〉が共通の約束事として進められますから、比較的冷静な状態を保ったまま練習ができます。
 しかし、そのような場でも、ときどき対立場面が発生します。それが練習のチャンスになります。

 だいぶ前のことですが、私が講師をしているカウンセリング勉強会で、こんなことがありました。
 私がカウンセリングについて説明をしていると、ある人が、「私はカウンセリングの理論は間違っていると思う」と言い出しました。

 当時の私は、まだカウンセリングの指導を始めて間もないころだったので、突然反論をされて焦りました。そして、なんとか分かってもらおうと、カウンセリングの理論を詳しく説明しました。それによって、なんとかその場は治まったのですが、なんとなく嫌な気分が残りました。

 いま考えると、それは、カウンセリングや〈対話法〉を実際に練習(訓練)する絶好のチャンスだったのです。
 つまり、相手の言葉に反応して説明で応じるのではなく、まずは、相手が言いたいことを確認すべきだったということです。
 また、私が確認するだけでなく、他の参加者の皆さんにも「確認者」の立場になっていただくことも可能でした。
 このように、現実の対立場面で「確認」の練習することは、何よりも大切なことです。

 それ以降も、このように対立する場面を、私は何度も経験しています。そして、それらを確認技法を使ってクリアしてきました。また、参加者の皆さんにも、「確認」が役立つことを目の当たりに体験していただきました。

 あるとき、私がメンバーとして参加していたメーリングリストでトラブル(感情的な批判の応酬)が発生しました。発端は、わずかな言葉の行き違いです。そのうちに治まるかと思って様子を見ていたのですが、それどころか、なんとなく危ない雰囲気になってきました。

 そこで、最悪の状態にならないうちに、私が、「お互いに、自分が言いたいことを書くのを一旦やめて、相手が言いたいことを確認してみてください」と仲介のメールを送ったら、それをきっかけに、即座に議論がかみ合ってゆきました。

 このように、実際の対立間面で〈対話法〉を使ってみることが、最も効果がありますし、一番の練習にもなります。
 慣れないうちは、〈対話法〉に熟練している第三者に仲介してもらうことも必要ですが、慣れてくれば、当事者同士でできるようになります。

 今回書いたことは、〈対話法〉を実際に日常で使えるようになる手順として、たいへん重要なことです。そして、その一つの方法として、研修会などの冷静な場面で、「相手が言いたいこと」をつかむ練習が必要なのです。

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2006年7月14日 (金)

「より」と「から」の使い分け

 突然ですが、次の文章、意味が分かりますか?

例1:

> 私の夢は、月より火星を見ることです。

 最近、私が気になっているのは、本来なら「から」という格助詞を使った方が良いと思えるところにまで、「より」という語句を使う人が多くなってきたことです。

 意味が明確ならまだいいのですが、中には、書いた本人が分かっているだけで、読み手には意味が分からないという文章に出会うことも珍しくありません。

 例1は、おそらく、「月から火星を見る」という意味だということが想像できますが、もしそうなら、「より」より「から」を使ってもらった方が意味がはっきりしますね。

 でも、もしかしたら、この人は月より火星の方に興味があるので、天体望遠鏡を買ったら、まずは火星を見てみたい、という意味なのかもしれませんが……。

 では、例1よりも現実にありそうな次の例はどうでしょうか?

例2:

> この本は人気があるので、12月より多くの部数が発売されることになりました。

 さて、この文章を書いた人は、「12月に発行された部数よりも多くの部数を発行することになった」と言いたいのか、「12月から多くの部数を発行することになった」と言いたいのか。

 従来は、比較的、「より」は than、「から」は from という意味で使い分けがされていたと私は思うのですが、最近、その使い分けが不明確になっています。

 さらに、本来なら「から」と言うべきところにまで「より」が使われるようになっています。これは一つの流行なのでしょうか?

 ところで、「より」は少なくとも2つの異なる意味がありますので、もともと誤解の温床(?)になりやすい語句です。

 法律関係に詳しい知人から聞いた話ですが、法律で使う用語は、出来るだけ誤解が少なくなるように決められているそうです。

 たとえば、「この法律は〜より施行する」とは決してしないで、「この法律は〜から施行する」と表記するとのこと。

 日常の会話や文章では、法律ほどの精確さは要求されないにしても、誤解を防ぐために、「複数の意味をもつ表記」は可能なかぎり避けたいものです。

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2006年7月 5日 (水)

メールを読むときの注意点

メールを出す際には、できるだけ誤解が生じないように書くことが大切です。
しかし、書く側だけがいくら努力しても、実際には限界があります。

そこで、今回は、メールの読み方、いや、読むときの「心構え」のようなものをお話ししておきたいと思います。

ふつう、文章はきちんと丁寧に読むのがよいといわれますが、メールでは、場合によって、その丁寧さがかえってアダになることがあります。
それはなぜでしょうか。

だれでも経験していることと思いますが、メールを書くときに、十分に推敲している時間がない場合、「必ずしも適切でない語句」を残したまま、あるいは「多少のあいまいさに目をつぶって」送信してしまうことがあります。

しかし、そのメールを受け取った側は、そのつもりになればいくらでも時間をかけて読めるので、じっくり読むほど、不完全な部分が気になってきます。
つまり文章のアラが見えてきます。

そして、不完全な部分や分かりにくいところを、なんとか想像で補おうと努力すればするほど、「書き手の意図とは違った解釈」をしてしまうことがあります。

それもそのはず。もともと、細部にわたる推敲がおこなわれていない文章なのですから仕方ありません。

ですから、

◎メールを読むときは、あまり厳密に(分析的に)読まない心がけ「も」大切です。

ただし、きちんと推敲されたメールの場合は、厳密に読んだほうがいいでしょう。

ちょっと極端な例ですが、たとえば、

「私たちは、たくさんのメールを出しあって、すでに考え方に微妙な違いがあることを確認してきたとはいえないのではないですか……」

のような文章は、読めば読むほど否定にも肯定にも受け取れます。
こんな場合は、その意味を、どちらか一方に決めることは保留にしておきたいものです。

もちろん、ずっとあいまいなままでいいわけではありません。大事な用件の場合は、どちらの意味なのかを、きちんと相手に確かめることが必要です。

そして大事なことは、相手の真意を確かめないまま反論をしたり、自分を否定されたと思って感情的になるのを慎むことです。

つまり、

◎メールによるやりとりでは、ちょっと変だなと思ったら、相手の意図を確かめるまでは、すぐに反応しないことが大切です。

これは、面と向かっての「対話」におけるルールとも共通しています。

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2006年7月 4日 (火)

対話とメール

「対話」あるいは「会話」は、ほとんどの場合、人と人とが面と向かって即時におこなわれるものです。それが書物や手紙などの「書き物」による情報や意見の交換との大きな違いでしょう。

では、E-メール(以降「メール」と略します)はどうでしょうか。私は、「対話」と「書き物」の中間に位置すると考えています。

簡単に言うなら、以下の二つの特徴があるでしょう。

●時間的な違い:メールは、面と向かっての「対話」に比べれば、はるかにゆっくり進行します。しかし、手紙よりは早いです。

●記録性の違い:「対話」は記録に残りませんが、メールは記録に残りますので、「書き物」に近いです。

さらにいろいろなことが考えられます。

「対話」は、瞬間的に出てくる言葉によってやりとりをしており、そこに、さまざまな形で多くの感情が込められます。また、言い間違いも頻繁に生じます。しかし、聞き手である相手の反応が目に見えるので、即座に言い直しが可能です。

メールは「対話」よりもじっくり考えながら書くことができますが、手紙や文書ほどには時間をかけないことが多いので、書き間違いや、わかりにくい表現をしてしまうこともあります。そこには誤解も発生するでしょう。しかし、相手から返事が戻ってくるまでは、間違いや誤解に気づきにくいです。

これらがメールの魅力でもあり、また危険なところでもあるわけです。

こんなことを考えると、メールを書くということは、「対話」と「書き物」の両方を意識したものになるのではないでしょうか。

さらに言うなら、メール交換は、かなり「対話」に近いものだと私は考えています。というか、「対話」としてとらえておいた方が、メールの危険性も、またその対策もわかりやすくなると思うのです。

ところで、メール交換のなかで、どうして誤解やトラブルが起こるのでしょうか。もちろんお互いの性格の違いや心理的な要因も多々あるでしょう。

しかし、単に書き方を少し工夫するだけで、未然に防げることもあります。またそういう方法を知っていれば、今まで以上に気軽に楽しくメールを書けるようになります。

また、メールには、実は書き方だけでなく、読み方にもコツがあるのです。〈対話法〉において、私が「聞き方」を強調するのと同じく、メールの場合も、意外と読み方が大切なのかもしれません。(次号につづく)

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