2011年9月12日 (月)

第2回「東日本大震災・対話の会」を開催します

■第2回「東日本大震災・対話の会」 参加無料(先着30人)

日時:2011年09月23日(午後1時30分〜4時30分)

会場:アカデミー文京・学習室(文京シビックセンター 地下1階) (東京都文京区春日1-16-21)

主催:対話法研究所 後援:東日本大震災・心の交流会

詳細情報と申し込みは、こちらからどうぞ。

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 対話法研究所では、〈対話法〉(あとで説明します)に関心をもつ人たちと一緒に、長年、「対話の会」を開いてきました。この会の主な目的は、〈対話法〉の技法の一つである「確認型応答」を練習しながら、心のリフレッシュを図ることです。

 「対話の会」では、さまざまな年齢や立場の人が、安心して語り合える場を維持するために、次のようなルールがあります。

. 会の中で知った個人情報やプライバシーは、会の外にもらさないでください

. 一人で切れ目なく5分(おおよその目安)以上話さないでください。

. 必要に応じて〈対話法〉の原則を守ってください。

. その場では解決しそうにない悩みや困りごと、難しい話題には深入りしないでください。

. 自分の考えを相手に押し付けるような言い方を慎み、一つの提案として示してください。

 「対話の会」には、このルールに合意した人が参加するため、一般の「話し合い」や「交流会」と比べて、安全性が高いという特徴があります。

 私は、東日本大震災の発生後、被災者・支援者を問わず、震災に関わる人たちの心理的支援の場でも、「対話の会」の方法が活かせるのではないかと考え、「東日本大震災・対話の会」を開くことにしました。

 この会は、震災に関わる、あらゆる立場の人が、支援する側・される側という枠を外して、共に語り、聞き合うことを通して、心労を和らげ、明日に繋がるエネルギーを生むことを目的としています。また、震災支援に関する情報交換の場にもなっています。

 ここで、〈対話法〉について説明します。これは、浅野が17年前から提唱しているコミュニケーション技法です。「自分の考えや気持ちを言う(反応型応答)前に、相手が言いたいことの要点を、相手に言葉で確かめる(確認型応答)」ことを原則(必要に応じて使う)としています。この中の「確認型応答」は、従来からある、傾聴や共感というコミュニケーション技法をアレンジしたものであり、場の安心感や信頼関係の構築に役立ちます。しかも、確認型応答は、技法として、傾聴や共感よりもシンプルかつ具体的なので、初心者でも理解しやすく、すぐに実践に結びつけることができます。

 「対話の会」での「確認型応答」の練習体験は、被災地での支援活動(特に心理的支援)に役立つと考えています。

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2008年7月11日 (金)

「自殺予防の相談ダイヤル」の実現に向けてできること

今朝のNHKニュースによると、昨年まとめられた、国の「自殺総合対策大綱」の施策の1つとして、9月から始めることになっている「自殺予防の相談ダイヤル」への参加を予定している自治体は、現時点で、全都道府県と政令指定都市のの9割たらずだそうである。

この「自殺予防の相談ダイヤル」は、全国共通の番号にかかってきた電話が、最寄の自治体の相談窓口につながる仕組みである。

自治体が参加を見合わせている主な理由として、「予算や相談員の確保ができない」があげられているようである。

確かに、自殺のおそれがある人からの深刻な相談を電話で受けるシステムや人材や、一朝一夕にできることではないだろう。ただ、だからと言って、実施を先延ばしにしていては、せっかく成立した「自殺対策基本法」や「自殺総合対策大綱」が絵に描いた餅になってしまう。

自殺対策には、さまざまな方策が考えられるが、相談窓口の充実ということに限っても、そこには、予算や相談員の養成という課題がある。

相談員には、心理学や精神保健、社会福祉などの知識に加えて、心理カウンセリングの基本とされる受容・共感・傾聴などを含む相談スキルが必須である。
ところが、従来の相談員養成研修の多くは、知識の部分はまだしも、いわゆる「聴く」スキルの習得に多くの時間がかかることが課題であった。(この課題に気づいていない人も多いのが現状であるが……)

しかし、〈対話法〉で使われている「確認型応答」や「反応型応答」という概念とスキルでは、従来の受容・共感・傾聴などがより具体的な形で示されているため理解しやすい。そして、従来と比べて研修時間が節約できるのである。

私は、一昨年から、地域の「いのちの電話」相談員養成講座の講師を担当している。はじめは、「カウンセリングの理論と実際」の部分での1コマだけのピンチヒッターだったが、「確認型応答」や「反応型応答」を導入した実習を取り入れたため、受講者に分かりやすいと好評だったようで、昨年は「カウンセリングの基礎演習」も加わり、担当が3コマに増え、今年は4コマを担当した。
もちろん、一応、カウンセリングの基礎も伝えておく必要があるため、従来の、受容・共感・傾聴という概念も説明はしているが、演習の部分は、「確認型応答」と「反応型応答」のみで行っている。

「いのちの電話」の相談員養成講座での演習を3年間担当して、「確認型応答」と「反応型応答」という概念とスキルの有効性をますます実感しているこの頃である。

受講生が理解しやすいということは、養成にかける時間を、より少なくできるということである。時間を少なくできるということは、それだけ、他の重要な知識やスキルの習得に時間を割くことができることを意味する。あるいは、養成にかける時間全体を短くして費用を節減できることにもつながる。また、重要なスキルを習得しやすいということで、相談者をより多く養成できる可能性が増すであろう。

「いのちの電話」でも、このようであるから、「自殺予防の相談ダイヤル」における相談員養成でも、近い将来、「確認型応答」や「反応型応答」という概念とスキルが導入されれば、予算の削減や相談員の増員に貢献できるのではないかと確信している。

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2006年9月 4日 (月)

ファシリテーションと〈対話法〉

以前、中野民夫著『ファシリテーション革命』(岩波書店)を読んだことがあります。この著者は、『ワークショップ』という本も、岩波新書から出しています。

ファシリテーションというのは、「促進する」という意味の英語「ファシリテート」の名詞形です。そして、その役目を担うのが、「ファシリテーター」と呼ばれる人です。

ファシリテーターは、日本語に訳せば、「促進者」とか「進行役」などとなるでしょうが、従来からある単なる司会や進行役とイコールではありません。

ファシリテーターは、グループに参加しているメンバーの個性を尊重しながら、グループ全体の力を最大限に発揮できるように、個人やグループが持っている能力や創造性を引き出したり、グループ機能の成長を促進したりする人のことです。
しかも、これらの活動が、安心してのびのびとした環境のもとでできるような「場づくり」をすることも、ファシリテーターの大切な役割の一つです。

著者は、『ファシリテーション革命』の「はじめに」の中で、「世界の平和を促進するのも、人間関係を上手に取り持つのも『ファシリテーション』である。ビジネス会議を創造的に導くのも、市民参加のまちづくりを推進するのも、参加体験型のワークショップを巧みに進行するのも、『ファシリテーション』である。教育の世界で、一方的に教えるのでなく、興味や関心を引き出したり、市民活動の現場で何かやりたいという人の心に点火するのも、『ファシリテーション』である」と書いています。

これは、じつは、簡単そうで難しいものです。ですから、有能なファシリテーターになるには、さまざまな体験をとおしてファシリテーション技術を培うことが大切です。そして、必要とされる能力の一つとして、参加者への共感や受容を伝えるコミュニケーション技術(主に傾聴)があります。
それは、ある意味で、カウンセラーの訓練と似た部分があります。
もちろん、カウンセラーになるには、共感や傾聴の「熟練」に加えて、精神医学や臨床心理学などの専門的知識が欠かせません。

一方、ファシリテーションにおいて、傾聴は大切なスキルの一つですが、傾聴に限って言うなら、カウンセラーほどには厳密さが要求されないと思います。なぜなら、その場は、心理治療を目的とする場ではないからです。
そのかわり、ファシリテーションでは、カウンセラーとは異なる多くの専門知識や感性が要求されるでしょう。

これまで述べてきたように、ファシリテーション技術の一つとして傾聴がありますから、そこでは、〈対話法〉の「確認型応答」の概念が役立つものと思われます。
今後、ファシリテーションの分野において、従来の傾聴技法に加えて、〈対話法〉の概念とスキルが併用されることを期待しています。

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2006年6月10日 (土)

確認における着眼点/事実と気持ち

〈対話法〉の「確認型応答」では、「相手が言いたいことの要点」をとらえることの重要性が強調されていますが、相手の話のどこに焦点を当てるかによって、「確認」の言葉はずいぶんと違ってきます。

例として、まず下の文章を読んでみてください。

「明日は日曜日なので家でゆっくできるから楽しみです」

文章なら、このように書くこともありますが、これが話し言葉ですと、いくつかの語句が省略されて、以下のどれかになる場合が多いのではないでしょうか。

「明日は日曜日だね」
「明日は家にいるつもりです」
「明日はゆっくりできるなあ」
「明日は楽しみだぞ」
「明日は日曜日だから家にいるよ」
「明日は日曜日だから家でゆっくりしようかな」
「明日は日曜日なので楽しみだ」
「明日は日曜日なのでゆっくできるから楽しみです」
「明日はゆっくできるから楽しみだぞ」

たいていの場合、話し手にとって、「これは言わなくても相手に伝わるだろう」と思われる語句が省略されます。
そして、往々にして、「気持ち」を伝えたいのに「事実」だけ言ったり、「意思」を伝えたいのに「気持ち」だけにとどめておいたりということが起こります。
実際、話し手はそこまで意識していないことが多いでしょうが……。

一方で、私達が人の話を聞くときは、語句が省略されているいないに関らず、相手が何を言いたいのか、何を伝えたいのかを想像しながら受け止めています。

しかし、語句が省略されていることが原因で、時には大きな誤解が起こることがあります。

本来、これは、「言いたいことをきちんと言語化していない話し手の責任(?)」なのですが、そればかり言っていては始まらないので、聞き手も努力しようというのが、〈対話法〉における「確認型応答」のねらいの一つなのです。

その努力をするうえで、事実・考え・思い・気持ち・意思を区別できるかどうかが一つのキーポイントになります。

ここで、元の文章に若干の語句を補って分類すると下記のようになります。

明日は日曜日です;事実
家にいるつもり;意思
ゆっくりできる;思い
楽しみ;気持ち

「確認」をする場合、これらの言葉の中から、「相手が言いたいこと」を想像してみることが大切です。

こうして、「事実・考え・思い・気持ち・意思」の区別ができるようになると、コミュニケーション技術は大きく前進します。
もちろん、人間の心に関することなので、数学や物理学のように、その違いを厳密に区別できるようなものではありません。境目ははっきりしないこともあります。しかし、だいたいの区別はできるはずです。そして、この、「だいたいできる」ということが、意外と大きな違いになって現れてくるのです。

ところで、「想像」を入れると、さらに一歩進んで、仮に、相手が言葉にしていないことも「確認」できることになります。もし、確認の内容が違っていたとしても、気にすることはありません。「確認すること自体」に意義があるのですから……。

ですから、たとえば、

「明日は日曜日だね」

とだけ言われたときでも、想像を交えて、

「楽しみなんだね」

と「確認」することが可能なわけです。

もちろん、「確認」の言葉は、この一つに限られるものではありません。
そして、一般的に、「事実」だけでなく「気持ち」にも着目した確認が大切です。

注)ここでは、〈対話法〉を例にして事実と気持ちの区別について説明しましたが、これらは、もちろん、従来の「積極的傾聴」でも重視されてきたことです。

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2006年6月 7日 (水)

私たちは無意識に傾聴していた

このブログの中で、傾聴あるいは「確認型応答」の大切さについて書いているが、私は、多くの人が日常の活動の中で全く傾聴ができないとか、一度も傾聴をしたことがないとは思っていない。
ただ、自分がしている、あるいはしていた行為が傾聴というものだというふうに認識していないだけだと思う。これは、ほとんどの人が、傾聴を知識やスキルとして教えてもらったことがないのだから仕方がないことである。

ところで、人付き合いが上手、対人関係がスムーズにできる、人から好感がもたれる、さらには、顧客から信頼され営業成績が高い、と認められている人たちは、どこかで傾聴を習ったか、あるいは、数々の実体験の中から自然と体得していったのであろう。もちろん、これらの能力は、傾聴スキルだけによるものではないけれど。

企業の管理職や医療・保健の専門職を主な対象として研修を行なっている産業医科大学の三島徳雄助教授らは、研修会の参加者はすでに傾聴を実践している(少なくとも部分的には)のだが、実際にどのような聞き方が傾聴であるかを意識していないために、傾聴が思うようにできないだけである、と考えている。

私も、この見解に賛成である。
これらの人たちが、これまで業務をうまくこなしてこられた(時には失敗もあったろが)からには、全く傾聴をしていなかったということは考えられない。単に、それらの行為に、「傾聴というラベル」が貼られていなかったため、自分が傾聴をしていることを意識していなかっただけだと思う。
同じ行為でも、意識して行なうのと、無意識あるいは、たまたま運良く(?)行なうのとでは、結果に大きな違いが出てくる。意識していないと、せっかくの効果的な行為も、必要な時に再現できないからである。

ここで、もう一度、先の三島助教授らの文章から引用する。(括弧内は浅野による補足)
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(管理監督者は)管理監督者という仕事柄、指示、命令、アドバイスなどで部下や周囲の人間を援助するのが普通だと考えている。すなわち、「傾聴することが他者を援助することになる」ということが知られていない。そのために、援助の手段として傾聴することを選択していないだけである。
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こう考えてみると、傾聴を意識的に実践することへのハードルは、私たちが思っているほど実際は高くないのかもしれない。

【参考文献】
三島徳雄・久保田進也・永田碩史 2004 管理監督者の資源を活かした職場のリスナー研修 心身医学,第44巻第12号

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2006年6月 5日 (月)

カウンセリング・傾聴・〈対話法〉の違い

このところ、〈対話法〉とカウンセリング(特に来談者中心療法)、さらにはカウンセリングの「積極的傾聴」との違いについて質問されることがたびたびあります。
そこで、若干難しい話になるかもしれませんが、このことについて私が考えていることを書いてみます。

違いをひとことで言うならば、〈対話法〉とカウンセリングは目的が違います。

〈対話法〉の目的は、誤解の少ない快適なコミュニケーションの実現ですが、カウンセリングの目的は、主として悩みやトラブルの解消(ゼロにするのは難しいですが)です。

つぎに言えることは、〈対話法〉はカウンセリングの一部である「積極的傾聴」含んでいるということです。
ただし、一部とは言っても、コミュニケーションを担うたいへん重要な部分です。

では、〈対話法〉と「積極的傾聴」はどこが違うのかということになりますが、この違いを文章だけで説明するのはたいへん難しいことです。
しかし、「難しい」だけでは答えにならないので、要点だけでも言葉にしてみます。

■〈対話法〉は、カウンセリングにおける「積極的傾聴」の本質を残しながらも、カウンセリングという特定な視点ではなく、コミュニケーションという、より一般的な視点を重視して簡略化したものである。

と言えるでしょう。(ますます分かりにくくなったかもしれませんが……)

〈対話法〉とカウンセリングは違うものです。しかし、カウンセリングの重要な部分である「聞き方の技法」としての「積極的傾聴」と、かなり似ています。
一見しただけでは、ほとんど見分けがつかないだけに、違いを認識してもらうにはなかなか苦労するところです。

でも、「積極的傾聴」でなく、わざわざ〈対話法〉としたことには、私なりの大きな理由があります。

その一番は、「肝心なところを誰にでも学びやすくした」ことです。

その一例が、「自分の考えや気持ちを言う前に、相手が言いたいことの要点を、相手に言葉で確かめる」という、具体的な原則の設定です。

「学びやすい」ということは、実践が容易になるということです。

〈対話法〉と「積極的傾聴」の違いは、見た目にはわずかな差でしかありません。しかし、この初期の「わずかな差」が、結果的には意外と大きな違いになります。
たとえてみれば、Y字型の分かれ道で、はじめは少ししか離れていないのに、進めば進むほどその間の距離が離れていくようなものでしょうか。
カウンセリングと〈対話法〉の間には、はじめから、もっと大きい違いがあります。

しかし、念のために言っておきますが、この「違い」は、どちらが良くて、どちらが悪いという意味での違いではありません。
カウンセリングにはカウンセリングの目的、〈対話法〉には〈対話法〉の目的があるのですから、違っていて当然です。ただし、勉強する段階でも、できれば、目的によって、カウンセリングと〈対話法〉を使い分けた方がいいと、私は考えています。

お断り:この記事の中では、カウンセリングと積極的傾聴を、厳密に区別しないで論じています。

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2006年5月31日 (水)

自分の話も「傾聴」してもらうには

傾聴スキル(相手の話をよく聴いたあと、自分が理解した内容が合っているかどうか相手に確かめる)を習って、その有効性を実感すると、とかく日常の生活の中で傾聴をする「役回り」になりやすい。
それはそれで、相手(話し手)にとっては気持ちがいいことなので、いい人間関係が継続する可能性が高い。

しかし、いつも傾聴していると、つまり聞き役に回っていると、疲れたり、たまには自分の言いたいことも思いきり言いたくなることがある。
そんな時は、自分の話を相手に傾聴してもらえると嬉しいのだが……。

しかし、「傾聴が大事です」「傾聴しましょう」と説かれることは多いが、相手に「傾聴してもらいましょう」といわれることは少ない。
いくつか理由はあろうが、その一つとして、「傾聴スキルは受容や共感が関ってくるので難しいから、それらを習っていない相手に要求しても無理である」という暗黙の了解があるのではないだろうか。

その点、〈対話法〉では、従来の傾聴スキルを、あえて受容や共感という概念を使わずに、「相手が言いたいことの要点を相手に言葉で確認すること」というふうに簡略化しているため、難しい理論や概念を知らなくても、だれでも傾聴に近いことができるのである。
したがって、自分の話を相手に「傾聴」してもらいたい場合は、たとえば、「私が言いたいことの要点だと思われるところを、言ってみてもらえませんか(つまり確認型応答)」とお願いするだけでよい。
もし、相手の確認型応答が違っていれば、たとえば、「本当は〜ということを言いたかったのです」と訂正すればいいのである。

 各地の対話法研究会では、参加者同士で〈対話法〉を練習しているが、その会での対人関係がうまくいっている理由として、〈対話法〉の原則、あるいは確認型応答という共通ルールの存在が大きい。また、相手にも聞いてもらえる時間が確保されていることが、一部の人だけが傾聴をして自分のエネルギーを持ち出すことを防ぐために大きな働きをしていると思われる。

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2006年5月28日 (日)

メーリングリストでのトラブル対応における対話法

私が管理者をしていた、あるメーリングリストで、以前こんな経験をしたことがあります。

ある日、メンバーの一人であるSさん(ハンドルネーム)が、メーリングリストの運営方法について、意見を投稿しました。
その内容や書き方が肯定的・建設的なものなら、なんら問題なかったのですが、実際それとは正反対の否定的・攻撃的(本人の意図は違うのかもしれませんが、私にはそう感じられました)なものだったのです。

案の定、メーリングリストは険悪な雰囲気になりました。
Sさんが、「〜について、管理者に説明を求めたい」と書くので、私が冷静に丁寧に説明しましたが、「管理者は逃げている。そんな言い訳では、とうてい納得できない。だれもが納得できる説明を求める」と言うので、私はさらに知恵を絞って説明したのですが、一向に納得してくれません。
そのうち、他のメンバーまでもが論争に参加してきて、終いには収拾がつかなくなりました。

そもそも、「だれもが納得できる説明」というのは、ほとんど不可能なことでしょう。また、説明とか議論というものは、お互いに理解し合おうという気持ちが双方にないと、いくら言葉を尽くしても分かり合えないものでしょう。

困った私は、ふと、「これが〈対話法〉(またはカウンセリング)だったら、どのように進めるだろうか」と考えました。
〈対話法〉の基本は、相手の発言の内容から、相手が何を言いたいのかを受けとめて、それを相手に確認することです。

さて、攻撃的(?)な書き込みをしているSさんは、本当は何を言いたいのだろう。
そこで気付いたのが、Sさんは、

「このメーリングリストをより良くしたい」

という気持ちがあり、本当は、それを言いたいのではないかということでした。
そこで、さっそく私は、

「Sさんは、このメーリングリストを良くしようと思って、たくさんの発言をしているのですね」

というコメントを書き込みました。
すると、驚くことに、その後のSさんの発言が、急に建設的になったのです。

後から考えたのは、最初のSさんの攻撃的(?)な発言に触発されて、こちらが防衛姿勢になってしまい、その姿勢(Sさんには逃げと映った)がSさんを益々刺激してしまったのではないかということです。

メーリングリストで発生するトラブルには様々な原因があるので、「この言葉」を言えば必ず解決するといえるほど単純ではありません。
しかし、この経験から、〈対話法〉の原則(つまり傾聴)を優先した対応が多いに役立つのではないかと、私は改めて思いました。

参考になるブログ記事
ネット荒らし対策でも広がる『傾聴』の技
---ネット上のバーチャルな世界でも「傾聴」が注目されている---

 

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2006年5月23日 (火)

もう一度、「繰り返し」の是非について

しつこいかもしれないが、重要なことなので、「繰り返し」(オウム返しも含むが、ここでは、簡略化のために「繰り返し」という用語で代表する)について、もう一度書いておきたい。

日常会話の中で、軽い感じで、無意識のうちに、自然発生的に出てくる「同じ言葉」は問題ないだろう。なぜなら、このような場合は、相手の言葉を「意図的」に繰り返そうとして繰り返しているのではなく、自然とそうなってしまったからである。私が問題視しているのは、「技法として意図的に繰り返す」という意味での「同じ言葉」のことである。

しかし、残念ながら、これら二つの「同じ言葉」が、どちらも「繰り返し」と称されることが多いため、初心者は混乱するのである。

極端に分けるとすれば、

意図的に同じ言葉を言うこと(=繰り返し) ×
意図するわけでなく、自然と無意識的に同じ言葉が出てくること ○

ということになる。

カウンセリング研修のロールプレイング場面で、カウンセラー役として何らかのことを言わなければならないという状況で、反射的に「繰り返し」をしてしまうという体験は、多くの人がしていると思う。
また、相手(クライエント役)の話が、短すぎたり、分かりやすすぎる場合も、「繰り返し」でしか応答できないことがある。

たとえば、クライエント役の人が、次のように言ったとしよう。

クライエント役:「今日は、ここまで車で来ました」

本来、この程度の話題では、いちいち共感的応答をする必要はないのであるが、ロールプレイングは応答をする「練習」が目的であるから、何か言わなければ「練習」にならない。そこで、たとえば、

カウンセラー役:「車で来たんですね」

と、「繰り返し」をしてしまうのである。

しかし、私がカウンセラー役をする場合、次のような応答をすることがある。

浅野:「何も話題がなくて困っているんですね」

もし、これがクライエント役の人の気持ちと違っていれば、

「いいえ、実は……」

と続けて話してくれるだろう。共感的応答は違っていてもいいのである。

もし合っていれば、

「はい、このような練習は初めてなので、急に何か話せと言われても、話したいことを思いつきません……」

というように、クライエント役の、文字通り「いま、ここで」の思いや気持ちを語ってくれるかもしれない。

このような応答については、少し深入りしすぎるという批判があるかもしれないが、共感的応答の「練習」だからこそ、このような挑戦をお勧めしたいのである。もちろん、練習の場だけでなく、実際のカウンセリングの場面でも活用してもらいたい。
ただし、このような応答は、あくまでも、カウンセラーの理解の仕方が合っているかどうかをクライエントに確かめることが目的である。決してカウンセラーの理解を押し付けてはならない。

この稿の最後に、ロジャーズの言葉を紹介する。

 そのアプローチ(非指示的療法)全体が、数年のうちにひとつの技法として知られるようになり、「非指示的療法とは、クライエントの感情を反射していく技法である」と述べられるようになってしまった。さらにひどい真似事として、「非指示的療法では、クライエントが述べた最後の言葉を繰り返せばよい」というのもあった。私は、自分たちが提唱しているアプローチが、こうして完全に歪曲されたことにショックを受けた。そのため、その後数年間は、共感的傾聴に関して何も述べないようにした。再びこれを強調するようになった時点では、共感的態度に重点をおいて、対人関係の中でどのように実行していくかについては少ししか述べないようにした。

参考文献:C・R・ロジャーズ著/畠瀬直子監訳『人間尊重の心理学』(A way of being)創元社 130ページ
ただし、趣旨を変えない範囲で、浅野が若干書き換えた。

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2006年5月19日 (金)

共感的理解は、少しくらい違っていてもOK!(2)

傾聴が、その重要性の割には、いまだに広く社会に浸透していない理由を、いつも考えている私としては、このブログにたくさんのコメントをいただき嬉しく思っている。
傾聴は、カウンセリングの基本的概念と技法であるが、それが、さまざまに理解・解釈され使われている現状をかいま見たような気がする。

ところで、ここ数日のブログ記事の中で、私は、受容・共感的理解・傾聴などの語句を、厳密な定義や区別をしないで使っている。専門家(私も専門家の一人であるが……)から見れば、とんでもないことかもしれない。

しかし、それには理由がある。
一番の理由は、それぞれが複雑かつ奥の深い概念なので、研究者によってさまざまな定義がされているため、それ(語句の意味の違いや研究者による定義の違い)を厳密に区別しながら論じようとすると、話がなかなか先に進まないからである。
つまり、ただでさえ難しい話が、ますます難しくなってしまうからである。
したがって、ここでは、それらの意味をどのように定義したとしても、常識的な範囲内であるなら問題ないとして話を進めている。

言い訳はこれくらいにして、今回、私が、「共感的理解は、少しくらい違っていてもOK!」と主張している根拠の一つを、ロジャーズの著書の中から紹介する。

『ロージァズ全集・第2巻』のなかでロジャーズは、「あまり重要でない誤り」として次のようなことを書いている。
ただし、分かりやすくするために、主旨を変えない範囲で、浅野が字句を若干書き換えたことをお断りしておく。

ロジャーズは、

カウンセラーが、クライエントの感情を不正確に理解して(つまり誤解して)、それをクライエントに言葉で伝えた場合、多くのクライエントはカウンセラーの言葉を否定するであろう。このような場合、その指摘を受けたカウンセラーが、自分の誤りを素直に認めることにより、その点についてクライエントと議論するようなことをしなければ、カウンセリングの進行にとって、なんら害になることはない。

と言うのである。

もちろん、そのすぐあとでは、

しかし、このような誤りが繰り返されると、クライエントは、自分が理解されていないという感じをもつため、カウンセリングの過程が長引いてしまう。

とも書いている。

もしかしたら、ロジャーズがこのように書いているのを知って、驚いた人がいるかもしれない。
もしそうだとしたら、それは、ロジャーズが提唱した来談者中心療法が、ロジャーズの手を離れて、かなりいろいろな方向に一人歩きしてしまった証の一つであろう。

参考文献:C・R・ロージァズ ロージァズ全集・第2巻「カウンセリング」岩崎学術出版社 1966

浅野の注:ロジャーズの名前の表記は、時代により相違がある。1960年代に日本で『ロージァズ全集』が出版された頃は、ロージァズという表記が一般的だったようである。

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