2008年10月20日 (月)

ほめる行為の効果に影響する上司と部下との関係

対話法研究所が行った研究結果を支持するような記事を見たので紹介します。

JR西日本は、福知山線脱線事故を受けて、平成18年、社内に「安全研究所」を設立しました。本日10/20、そこで行われた、人的要因が安全に与える影響についての研究成果が発表されたそうです。

研究の一つとして実施された、「効果的なほめ方・しかり方」についてのアンケート調査によると、部下が行った工夫を上司が評価した場合、業務に対する責任感が向上しますが、上司との関係が悪ければ、逆に低下するという結果が出たようです。

つまり、「上司と部下の関係が良好な状態を保ったうえでほめることが重要」だということが分かったということです。

浅野が提唱している〈対話法〉の理論によると、「ほめること」は「反応型応答」に分類されます。
そして、最近の研究によると、反応型応答は、その好感度が、相手との信頼関係など、様々な条件に左右されること、一方、「確認型応答」は、信頼関係の有無にあまり影響されずに、好感度が比較的高く保たれる傾向にあることが分かりました。

JR西日本の研究では、ほめるという行為と業務に対する責任感との関係について調査したわけですが、「ほめられる」ことに対する好感度が、業務に対する責任感に影響すると仮定するなら、浅野による研究と、ほぼ同じ結果が出たと言えるでしょう。

浅野による、この研究結果は、8月に九州で開かれた国際学会で発表されました。また、詳しいことは、間もなく刊行されるジャーナルに掲載される予定です。

■参考記事(産経新聞)「仲が悪ければほめても逆効果 JR西が上司と部下の関係を研究」はこちらです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081020-00000538-san-soci

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2007年3月21日 (水)

〈対話法〉の効果を実証する試み

 対話法研究所の浅野は、昨年(2006年)末から今年にかけて、「確認スキル」(〈対話法〉で提唱されている「確認型応答」に相当します)を中心とした傾聴訓練が、高校生のコミュニケーションスキル、孤独感、学校生活満足度に与える効果を研究しました。

 なお、今回の研究のように、「傾聴訓練」のみの効果をデータを示して実証する研究は、これまで意外と少なく、とくに高校生を対象としたものは皆無に等しいため、貴重な研究結果であると言えるでしょう。
 また、「確認スキル」の訓練効果は、言い換えれば〈対話法〉で提唱されている「確認型応答」の訓練効果に相当するため、今回の研究は、〈対話法〉の効果の実証を試みたことになるでしょう。
 今後、小中学生を対象として同様の研究が行われることを期待しています。

 研究では、高校3年生(訓練群3クラス90名、統制群3クラス82名)を対象に、「確認スキル」をターゲットスキル(訓練の中心となるスキル)として傾聴訓練を行ないました。

 訓練群(実際に訓練を実施したクラス)では、ホームルームと読書の時間(合わせて20分)を使って、4〜8回にわたり、クラス担任の指導により訓練が実施されました。
 訓練は3人(発言者、確認者、観察者)1組で行われ、発言者が自分の言いたいことを話したあと、確認者が発言者の話の要点を言い返して確認する形で発言と確認を繰り返し、約3分後に発言者と確認者が役割を交替するという方法でした。
 一方、統制群(訓練を実施しないクラス)では、その期間中、通常のホームルームと読書の時間を過ごしました。

 訓練前、訓練終了後、その約1ヶ月後の3回、両群に対してアンケート(心理尺度による測定)を実施しました。

 その結果、傾聴訓練が、「同輩とのコミュニケーションスキル」の低い生徒のスキルを向上させることがわかりました。
 また、もともと孤独感が高い生徒の場合、傾聴訓練により孤独感が低減する傾向にあることがわかりました。
 さらに、学校生活に不満足感をいだいている生徒の場合、傾聴訓練によって「学校生活満足度」が増大することがわかりました。

 このように、今回の研究により、「確認スキル」(確認型応答)のみをターゲットスキルとした傾聴訓練に一定の効果があることがわかりました。

 一般的に、コミュニケーションスキルが不足している、孤独感が高い、学校生活満足度が低い生徒は、さまざまな問題行動を起こしやすいと言われていますが、このような生徒への予防的な教育活動の一環として、「確認スキル」(確認型応答)のみをターゲットスキルとした傾聴訓練を用いることが期待されます。また、学校における「いじめ」問題の対策の一つとしても効果を発揮するものと思われます。

 研究の詳細は、近いうちに、対話法研究所のホームページに掲載する予定です。

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2007年1月 1日 (月)

確認!やってるつもり

新年おめでとうございます。
今年も〈対話法〉をよろしくお願いいたします。

今年も、東京をはじめ、各地で研修会・練習会を開いていきます。

昨年の後半から、これまでとは違う分野から〈対話法〉の講演を依頼される機会が増えてきました。
そのため、これまでとは違った感想や質問をいただく機会があり、〈対話法〉の普及活動を進めていくうえで有り難いことと感謝しています。

それらのなかから、両極端の二つの感想(質問)を紹介します。

1 「確認」だけでは会話が進まないのではないでしょうか。
2 「確認」はこれまでにもしてきたことだと思います。

1についてですが、〈対話法〉では、確認「だけ」してくださいとは言っていないのですが、人(研修会・講演会の参加者)によっては、そのように受け取ってしまうようです。
これについては、〈対話法〉の説明の仕方をさらに工夫していく必要性を感じています。
改めて言いますと、「確認」は、「必要なとき」にすればいいのです。

つぎに2についてです。
〈対話法〉が提唱する「確認」は、これまで私たちが無意識(自然)に行なってきた「確認」とは「質」と「量」が違います。また、「無意識」に確認するのと、「意識して」確認するのとでは、効果が大きく異なります。

これについては、日本対話法研究会会員のブログ「♪相互理解ができたらいいね♪」の報告「情報の分かち合いに感謝します」が参考になります。

私たちは、比較的冷静なときは、ときどき無意識に「確認」をしていますが、少し感情的になると、多くの場合「確認」を忘れてしまうのです。そのため、お互いの感情がエスカレートして人間関係が悪化してしまうのです。
実は、こんなときにこそ「確認」が必要なのですが……。

つまり、やってる「つもり」の確認から、「やれる」確認に転換することが、今、求められています。
そのためには、どんなときにも意識的に「確認」ができるように、普段から練習をしておくことが大切でしょう。

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2006年11月13日 (月)

「いじめ」の問題と「聞くこと」の重要性

今日(11月13日)の夜7時からの「NHKニュース7」の中で、このごろ連日のように報道されている学校での「いじめ」の問題に関して、自ら「いじめ」を受けたことのある2人の体験者が、当時の思いを語っていた。

それは、「いじめを受けていることを訴えても、多くの大人は、子どもの話をよく聞きもしないで、すぐに自分の意見を言う。大人は、もっと子どもの話をきちんと聞いて理解してから、意見を言って欲しい」という内容であった。
それに続いて、東京シューレ理事長の奥地圭子さんも、「大人は、はじめに意見ありきでなく、もっと子どもの話を聞いてあげて欲しい」という内容のことを話していた。
どちらも、まずは「聞く」ということを最優先して欲しい、という訴えなのである。(どちらの発言も、記憶に頼って書いているので、細かいところはうろ憶えであるため、文責は浅野にある)

これらのコメントを聞いた時、それが、「自分の考えや気持ちを言う前に、相手が言いたいことの要点を、相手に言葉で確かめる」ことを唯一の原則として提唱している〈対話法〉と同じであることに驚いた。そして、〈対話法〉の普及活動に対して、これまで以上の使命感さえいだいたのである。

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2006年10月13日 (金)

〈対話法〉における「三方よし」の理念

 〈対話法〉の理論と技法は、心理学(特にカウンセリング心理学)やコミュニケーション学を基盤としているが、その普及方法となると、モデルとなるものがなかなか見つからなくて苦慮していた。そのためか、〈対話法〉に一度でも触れる機会があった人からは、〈対話法〉の価値を認めてもらい、少しずつ輪が広がっていくのであるが、その評判や効果の割には、広がり具合が遅々としていることを不思議に思っていたのである。

 一方で、コミュニケーション不全に端を発すると思えるような事件・事故が多発している現在、それらの対策と予防の手段の一つとして〈対話法〉を役立ててもらいたいとの思いは高まるばかりである。

 先日、コミュニティケア活動支援センター事務局長の佐藤修さん(コンセプト・デザイナー/(株)コンセプトワークショップ代表)と話す機会があった。佐藤さんは、〈対話法〉と、その普及活動を応援している貴重な人物の一人である。

 これまで、どちらかというと、〈対話法〉の普及活動は、基本的に無償で行なってきた。もちろん、対話法研究所所長の浅野が、会社・学校・公的機関などに講師として呼ばれるときは、それ相応の講師料をいただくことはある。しかし、所長以外の協力者の皆さん(日本対話法研究会会員)の活動の多くは、交通費もいただかない無償での働きがほとんどだったのである(練習会の会場費程度はいただいている)。

 これが、たいへん有り難く尊い行為だという思いは、いまでも変わらない。しかし、改めて考えてみると、〈対話法〉の普及活動の目的は、「無償で行なう」ことではなく、「普及させる」ことなのである。

 このような話を佐藤さんとしているうちに、普及活動が無償で行なわれているところに、いま一つ広がっていかない原因の一つがあるのではないか、との意見をいただいた。わたしも、おぼろげながら考えていたことではあるが、佐藤さんのように、〈対話法〉に理解のある第三者の方から改めて言われたのを機に、この問題に真剣に取り組もうと考える昨今である。

 なんらかの社会的活動や市民活動をするとき、それが新しい活動であればあるほど、有償で行なうのか無償で行なうのかという難しい選択に直面する。これについて論ずるのは、それだけでも大変なことであるが、〈対話法〉の普及活動も、この問題の渦中にあったと言えよう。

 話の中で、佐藤さんが、ふと、「三方よし」という言葉を漏らした。これは、近江商人の経営の心得・理念として知られる、「売り手よし、買い手よし、世間よし」のことである。〈対話法〉の普及活動は、商人が物品を販売するのとは趣が異なるものの、「三方よし」という理念には、おおいに学ぶところがあると思う。

 〈対話法〉の場合、「売り手よし」とは、講師(世話人と呼ぶことが多い)の物心両面での満足(利益)のことであり、「買い手よし」とは、受講生(参加者)の「心の」満足(利益)のことになる。そして、「世間よし」は、公共の利益(社会貢献)という意味合いである。〈対話法〉では、この理念をモデルとして普及活動を進めていきたいと考えている。

 そして、その第一歩として、東京〈対話法〉研修会を企画した。この形が、有償での普及活動のモデルの一つになれば幸いである。もちろん、時と場合に応じて、従来のような無償での活動も続けていきたい。

 思えば、「自分の考えや気持ちを言う前に、相手が言いたいことの要点を、相手に言葉で確かめる」という〈対話法〉の原則自体が、この「三方よし」の理念にかなっている。どちらかが一方的に話したり聞いたりするのではなく、お互いの「発言する権利」を尊重し合うこと、そして、その際に、自分の発言よりも、相手の話をきちんと聞くことを、まずは優先するのである。そして、この原則には明記されていないが、この原則に則った対話による良好な対人関係が、社会における健全な経済活動や福祉の発展に貢献するのである。これは、コミュニケーションにおける「三方よし」の理念の実現の姿の一つなのではないだろうか。

【参考】「三方よし研究所」というのが滋賀県彦根市にある。

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2006年9月 4日 (月)

ファシリテーションと〈対話法〉

以前、中野民夫著『ファシリテーション革命』(岩波書店)を読んだことがあります。この著者は、『ワークショップ』という本も、岩波新書から出しています。

ファシリテーションというのは、「促進する」という意味の英語「ファシリテート」の名詞形です。そして、その役目を担うのが、「ファシリテーター」と呼ばれる人です。

ファシリテーターは、日本語に訳せば、「促進者」とか「進行役」などとなるでしょうが、従来からある単なる司会や進行役とイコールではありません。

ファシリテーターは、グループに参加しているメンバーの個性を尊重しながら、グループ全体の力を最大限に発揮できるように、個人やグループが持っている能力や創造性を引き出したり、グループ機能の成長を促進したりする人のことです。
しかも、これらの活動が、安心してのびのびとした環境のもとでできるような「場づくり」をすることも、ファシリテーターの大切な役割の一つです。

著者は、『ファシリテーション革命』の「はじめに」の中で、「世界の平和を促進するのも、人間関係を上手に取り持つのも『ファシリテーション』である。ビジネス会議を創造的に導くのも、市民参加のまちづくりを推進するのも、参加体験型のワークショップを巧みに進行するのも、『ファシリテーション』である。教育の世界で、一方的に教えるのでなく、興味や関心を引き出したり、市民活動の現場で何かやりたいという人の心に点火するのも、『ファシリテーション』である」と書いています。

これは、じつは、簡単そうで難しいものです。ですから、有能なファシリテーターになるには、さまざまな体験をとおしてファシリテーション技術を培うことが大切です。そして、必要とされる能力の一つとして、参加者への共感や受容を伝えるコミュニケーション技術(主に傾聴)があります。
それは、ある意味で、カウンセラーの訓練と似た部分があります。
もちろん、カウンセラーになるには、共感や傾聴の「熟練」に加えて、精神医学や臨床心理学などの専門的知識が欠かせません。

一方、ファシリテーションにおいて、傾聴は大切なスキルの一つですが、傾聴に限って言うなら、カウンセラーほどには厳密さが要求されないと思います。なぜなら、その場は、心理治療を目的とする場ではないからです。
そのかわり、ファシリテーションでは、カウンセラーとは異なる多くの専門知識や感性が要求されるでしょう。

これまで述べてきたように、ファシリテーション技術の一つとして傾聴がありますから、そこでは、〈対話法〉の「確認型応答」の概念が役立つものと思われます。
今後、ファシリテーションの分野において、従来の傾聴技法に加えて、〈対話法〉の概念とスキルが併用されることを期待しています。

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2006年7月31日 (月)

省略されたコトバ

わたしたちが会話をするとき、また文章を書くとき、かならず省略という作業(普段は無意識ですが)をおこなっています。
言わなくてもわかるだろうと思われることは省略されます。逆に、自分が強調したいことや、説明しないと相手がわからないのではないかと思えるところはコトバにします。
 
聞き手は、その省略されたコトバを適当に補いながら話を理解していきます。
そこで、話の省略部分をうまく復元できれば「理解」になりますが、話し手の意図と違ったコトバで補ってしまうと「誤解」になります。

ある市民活動をしている友人からこんな話を聞いたことがあります。

あるとき、遠方から講師を呼んで講演をしてもらったのですが、帰りがけに、その講師が、
「例会にはいつもこれくらいしか集まらないのですか?」
と言ったそうです。

友人は、せっかく遠くから講師が来たのに、参加人数が少なくて気を悪くしたのではないだろうかと、心配そうにわたしに話してくれました。

ここで、友人がなぜそう受け取ったのかを、わたしなりに想像してみます。

友人は、一所懸命に活動をしているにもかかわらず、例会への参加者が少なくて、常々悩んでいました。
それで、講師のコトバ、
「例会にはいつもこれくらいしか集まらないのですか?」に、
「せっかく遠くから来たのに残念だ」
というコトバを補ってしまったのでしょう。

しかし、わたしは、この話を聞いたとき、そうは思いませんでした。
というのは、参加者が少ないことはその講師も了解済みだということを、友人が講演を依頼した時点で、すでにわたしは聞いていたからです。

ですから、講師が言ったコトバは、
「一所懸命に頑張っているのに、残念ですね。だんだんと活動が広がっていくといいですね」
という、友人に対する「励ましのコトバ」だった可能性が高いのです。

講師は、友人に対して、あくまでも人数を聞いただけであり、自分の気持ちは言っていません。つまり気持ちが省略されています。なぜ省略したのか、理由はわかりませんが、「言うまでもなく明白だ」、と思ったか、または、「たんに言いにくかった」のでしょう。

この程度の省略は、わたしたちの毎日の生活のなかで日常茶飯に行なわれます。

ところで、コトバを補うときは、善かれ悪しかれ、聞き手の「先入観」や「心理状態」が影響します。これは、人間のコミュニケーションではやむを得ないことでしょう。

ですから、大事なことは、「コミュニケーションではこのような現象が常に起こっているのだ」ということを忘れないことです。そして、特に重要な対話場面では、相手の気持ちを確認することが必要です。
これが、わたしが〈対話法〉を薦めている理由の一つです。

〈対話法〉でいうところの「確認」は、言い換えれば、
「あなたの話を、わたしはこのようなコトバを補って聞きましたが、それでいいですか?」という確認作業のことなのです。

今回の例でいえば、確認の言葉は、

◎人数が少ないので、残念だと思っているんですね。
◎せっかく来たのに、人数が少なくてがっかりしているんですね。

などになるでしょう。

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2006年7月18日 (火)

対立場面こそ練習のチャンス!

 「相手が言いたいことの要点を相手に言葉で確認する」という〈対話法〉の原則が本当に役立つのは、、意見が異なる人と感情的な言い合いになったり、誤解が発端で人間関係がぎくしゃくしはじめた場面です。言い換えれば、多くの人が苦手とする場面で〈対話法〉が役に立つわけです。

 ところが、想像するだけでも分かると思いますが、上に書いたような場面で〈対話法〉を使うことは、実際はかなり難しいことです。
 なぜかと言えば、上記のような場面では、双方が感情的になっているので、「相手の言いたいことを確認する」どころか、相手の言葉を冷静に聞くことさえ難しくなっているからです。

 人間は、感情的になると、相手の言葉が耳に入ってきません。
 〈対話法〉の練習をしてみると分かるのですが、冷静な場合であっても、相手が言いたいことを受けとめることはなかなか難しいのですから、感情的な時はなおさらです。

 しかし、何度も言うように、そのような時にこそ〈対話法〉の原則が役に立つわけですから、いざというとき使えるように練習をしておくのです。それも、できれば、実際の対立場面での練習が重要です。

 〈対話法〉研修会では、はじめから、〈対話法〉が共通の約束事として進められますから、比較的冷静な状態を保ったまま練習ができます。
 しかし、そのような場でも、ときどき対立場面が発生します。それが練習のチャンスになります。

 だいぶ前のことですが、私が講師をしているカウンセリング勉強会で、こんなことがありました。
 私がカウンセリングについて説明をしていると、ある人が、「私はカウンセリングの理論は間違っていると思う」と言い出しました。

 当時の私は、まだカウンセリングの指導を始めて間もないころだったので、突然反論をされて焦りました。そして、なんとか分かってもらおうと、カウンセリングの理論を詳しく説明しました。それによって、なんとかその場は治まったのですが、なんとなく嫌な気分が残りました。

 いま考えると、それは、カウンセリングや〈対話法〉を実際に練習(訓練)する絶好のチャンスだったのです。
 つまり、相手の言葉に反応して説明で応じるのではなく、まずは、相手が言いたいことを確認すべきだったということです。
 また、私が確認するだけでなく、他の参加者の皆さんにも「確認者」の立場になっていただくことも可能でした。
 このように、現実の対立場面で「確認」の練習することは、何よりも大切なことです。

 それ以降も、このように対立する場面を、私は何度も経験しています。そして、それらを確認技法を使ってクリアしてきました。また、参加者の皆さんにも、「確認」が役立つことを目の当たりに体験していただきました。

 あるとき、私がメンバーとして参加していたメーリングリストでトラブル(感情的な批判の応酬)が発生しました。発端は、わずかな言葉の行き違いです。そのうちに治まるかと思って様子を見ていたのですが、それどころか、なんとなく危ない雰囲気になってきました。

 そこで、最悪の状態にならないうちに、私が、「お互いに、自分が言いたいことを書くのを一旦やめて、相手が言いたいことを確認してみてください」と仲介のメールを送ったら、それをきっかけに、即座に議論がかみ合ってゆきました。

 このように、実際の対立間面で〈対話法〉を使ってみることが、最も効果がありますし、一番の練習にもなります。
 慣れないうちは、〈対話法〉に熟練している第三者に仲介してもらうことも必要ですが、慣れてくれば、当事者同士でできるようになります。

 今回書いたことは、〈対話法〉を実際に日常で使えるようになる手順として、たいへん重要なことです。そして、その一つの方法として、研修会などの冷静な場面で、「相手が言いたいこと」をつかむ練習が必要なのです。

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2006年6月28日 (水)

「でも」に気をつけて!

雑談の輪の中に入ってだまって聞いていると、同じ事を言っている(ように私には思える)人同士が互いに誤解したまま長々と議論している場面に遭遇することがあります。

時には、「単なる誤解」を「見解の違い」と勘違いしたまま、お互いに譲らず、攻撃し合うことさえあります。これは時間と労力がもったいないと思います。
そこで、なかなかおさまらない場合は、私が〈対話法〉をつかって仲裁に入ることがあります。

たとえば、Aさんが、

「電子メールを使うと、筆無精のわたしでも手軽に連絡ができるので便利です」

と言うと、Bさんが、

「でも、電子メールは相手の表情がわからないから危険性がありますよ」

と言い返します。

すると、Aさんが、

「そんなことないですよ。便利ですよ」

と反論します。

Bさんが、「でも、危険性がありますよ」

        ……

こんなやりとりが延々と続くことがあります。

では、AさんとBさんの、電子メールに関する見解が全く異なっているのかといえば、多くの場合、実はそうではなく、便利さを認めている点では同じということがほとんどです。

では、どうして、意見が対立の様相を呈してしまうのでしょうか。

いろいろな解釈ができるとは思いますが、一つの代表的なパターンを考えて見ましょう。

「でも、電子メールは……」と言うBさんは、実は「電子メールは便利ではない」と言うつもりはなくて、「便利だけれども危険性もある」と言って、Aさんの発言に補足するつもりだったことが考えられます。
でも、Aさんは、これを反論と受け取ってしまったというわけです。

ここで、Bさんが〈対話法〉の原則を使っていれば、こんなことにはならないのですが……。

しかし、実際の会話の中で〈対話法〉をつかうのが難しいとしたら、せめて、「でも」という言葉を使うときには、このような危険性があることを覚えておくといいでしょう。

そして、もしも誤解されていると気付いたら、「反対意見を言いたいのではなく、補足するつもりです」とフォローすることも大切でしょう。
また、当人同士ではフォローが難しい場合は、まわりのだれかが助け船を出すことが必要かもしれません。

注)〈対話法〉の原則についての説明は、対話法研究所のホームページでご覧下さい。

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2006年6月26日 (月)

話し下手のメリット

〈対話法〉やカウンセリングの講師をしていると、「わたしは人と話すのが苦手なので〈対話法〉を勉強したいです」という人と巡り合う機会があります。そういう人は、たいてい上手な話し方、とくに人の気持ちを引き付ける話し方を習いたいようです。しかし、〈対話法〉では、上手に話せるようになることを目的にしていません。(結果的に話し上手になることはありますが)

ただ、〈対話法〉をマスターすると、人から一目置かれることがあります。それは、会議などで、話の要点をまとめて、交通整理をする役割になったときです。
面白い話ができる人の回りには大勢の人が集まりますが、たとえ面白い話はできなくても、この「交通整理」ができる人は、いざというときに頼りにされます。そういう人は、回りから信頼されます。

「自分は話し下手だ」と思っている人のなかには、実は、このような場面で人の役に立てる人が大勢います。なぜなら、「対話の会」などで〈対話法〉の練習をしていると、「話し下手」だと言っている人が、かえって「確認」が上手にできる場合が少なくないからです。

しかし、幸か不幸か(?)、聞くことが上手になると、とかくいろいろな場面で聞き役になってしまい、自分の言いたいことが言えないまま会議が終わってしまうことがあります。それでいいかどうかはケースバイケースですが、そんなときの楽しみ方があります。

そういうときは、他の人のやりとりを聞きながら、「ああ、ここが要点だな」とか「自分だったらここで確認するな」などと考えながら聞くのです。これも楽しいものです。会議に限りませんが、なにも発言しないからといって、会話に加わっていないとは限りません。逆に、一見活発に発言していても、他の人の話を聞いていなければ、会話に加わっていないのと同じことですから、要注意です。

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2006年6月19日 (月)

誤解を防止する確認型応答

だいぶ前の出来事ですが、ある人から、下記のようなメールを受け取りました。

■ ……○○さんに連絡をすることはメールで断ったのですが……

          (前後の文章は省略します)

この文章を読んで、私はどう理解したら良いかわからず、首をひねってしまいました。前後の文脈からも判定不可能なのです。書いた人は、この文章の問題点に気づいていないのでしょうが……。

まずなによりも、この文章は肝心なことが全部抜けているのです。つまり、誰が断ったのか、誰に断ったのか、全く書いてありません。想像さえもできません。

さらにやっかいなのは、「断る」という語句の解釈が二通りあることに書き手が気付いていないことです。

「断る」には、代表的なものとして 許しを得る・拒否する の二つの意味があります。全く正反対の意味です。これを言葉の多義性といいますが、「断る」の場合、同じ言葉でこんなに意味が違うのは珍しいことです。

私は心理カウンセラーをしているので、カウンセリングの面接ではもちろん、日常生活でも、言葉の多義性には常に気を配っています。

ここで、カウンセリングでの失敗談を一つお話ししましょう。

カウンセリングは、相手(クライエント)の話を聞くことがメインになるので、一所懸命に聞くのですが、あるとき、クライエントから、「先生、もっと聞いてください」と言われました。私はとっさに、自分の聞き方が悪いのだと思い、ますます真剣に聞いたのですが、それにも関らず、「もっと聞いてくださいよ……」と言うのです。

おかしいなと思って、よくよく話しあってみたら、クライエントが言う「聞いてください」は、「分からないことがあったら聞いてください(質問してください)」という意味だったのです。にも関らず、私は、「質問」とは全く逆のことをしていたわけです。

このような誤解は、日常にはたくさんあります。笑い話で終わる内容や程度ならいいのですが、誤解から対人トラブル、さらには大きな失敗や事故に発展(?)してしまうこともありますので、気をつけなくてはなりません。

コミュニケーションって難しいですね。特にメールは、書き上がった文章を推敲しない場合が多いので、誤解の宝庫(?)になりがちです。

そこで、メールに限ったことではないのですが、相手との対話(メール交換も対話の一種です)の中で、「なにかおかしいな(変だな)」と思ったら、気付いた時点で相手に、「それは〜という意味ですか」あるいは「私は〜というふうに理解しましたが、これで合っていますか」という「確認型応答」をすることが、トラブルを防ぐ一番確かな方法です。

方法は、いたって単純ですが、意識的に実行している人は意外と少ないものです(無意識にやっている人はたくさんいます)。
また、私の経験と研究によると、この「確認型応答」を使えば、コミュニケーションが原因となる、多くの対人トラブルを防止・解消することができます。

言葉の解釈の違いによる誤解を少しでも防いで、より快適な対話や話し合い(メール交換を含む)をしましょう、というのが、私が〈対話法〉を提唱している一番の理由です。

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2006年6月17日 (土)

対話におけるコトバの省略と復元

わたしたちが会話をするとき、また文章を書くとき、無意識のうちに、かならず「省略」という作業をしています。
「これは言わなくても相手に伝わるだろう」と思われるコトバは省略されます。逆に、強調したいことや、詳しく説明しないと相手がわからないのではないかと思えるところはコトバにします。

一方、聞き手は、その省略されたコトバを適当(適切)に補いながら話を理解してゆきます。
そして、話し手が省略した部分を、聞き手がうまく復元できれば「理解」になります。しかし、話し手の意図と違ったコトバを補ってしまうと「誤解」になります。

ところで、コトバを補う(復元する)プロセスには、善かれ悪しかれ、聞き手の「先入観」や「心理状態」が影響します。人間同士のコミュニケーションでは、これはやむを得ないことです。

大事なことは、「コミュニケーションでは、このような現象が常に起こっている」ということを忘れないことです。
そして、特に重要な対話場面では、自分の理解が合っているかどうかを相手に確認すること(確認型応答)が必要です。これが、わたしが〈対話法〉を薦めている理由の一つです。

〈対話法〉でいうところの「確認型応答」は、言い換えれば、
「あなたの話を、わたしはこのようなコトバを補って聞きましたが、それでいいですか?」
という確認作業のことなのです。

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2006年6月 9日 (金)

コミュニケーションの成功率

わたしは、コミュニケーションはキャッチボールのようなものだとか、対話の練習はスポーツのようなものだと常々言っています。もちろん、他にもそのように言っている人はいます。

そこで、たとえついでにもう一つ付け加えます。
それは、スポーツと同じで、いつも成功する(うまくいく)とは限らないということです。

たとえばサッカー。シュートをしても必ず得点(ゴール)になるとは限りません。たくさんの失敗(スポーツではこのような言い方はしないと思いますが)があります。それでも、練習を積んだ能力のある選手は、数回に1回は、得点につながるシュートができます。

次に野球。一流選手といえども、毎回ヒットやホームランを打つとは限りません。上手な選手ほどヒットを打つ確率は高くなりますが、100%ではありません。

もう一つ相撲。さすがに横綱、大関などの上位陣になると、勝ち星の方がはるかに多くなりますが、下位のうちは、負けよりも勝ちが少しでも多ければ昇進してゆきます。つまり、50%以上勝てればオーケーなのです。

このように、全国レベル、世界レベルの選手でさえ、100%の成功率(得点率)があるわけではないのです。それくらい、人間相手の対戦(?)というのは確実性が低いことなのです。
コミュニケーションもある意味で「相手との対戦(勝ち負けはありませんが)」ですから、失敗があって当然です。要は、失敗を失敗のままにしなければいいのです。

日常の人間関係やコミュニケーションにおいてもこのようなことですから、まして、新たなスキルである「確認型応答」を試みて失敗したとしても、気にすることはありません。
数回のうち、たとえ1回でもうまくゆけば、それは大きな前進です。

失敗が即人命にかかわるとか、大きな経済的損失を被るような分野では、失敗は限りなくゼロに近いことが要求されます。そのかわり、複数の人によるチェック体制や、フェールセーフと呼ばれる機械的な安全装置が使われています。

しかし、日常のコミュニケーションでの多少の失敗は修復可能(対応が遅すぎると大きな問題になることがありますが)ですから、あまり神経を使う必要はないでしょう。「確認型応答」は、その修復のためのスキルにもなります。

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2006年6月 7日 (水)

私たちは無意識に傾聴していた

このブログの中で、傾聴あるいは「確認型応答」の大切さについて書いているが、私は、多くの人が日常の活動の中で全く傾聴ができないとか、一度も傾聴をしたことがないとは思っていない。
ただ、自分がしている、あるいはしていた行為が傾聴というものだというふうに認識していないだけだと思う。これは、ほとんどの人が、傾聴を知識やスキルとして教えてもらったことがないのだから仕方がないことである。

ところで、人付き合いが上手、対人関係がスムーズにできる、人から好感がもたれる、さらには、顧客から信頼され営業成績が高い、と認められている人たちは、どこかで傾聴を習ったか、あるいは、数々の実体験の中から自然と体得していったのであろう。もちろん、これらの能力は、傾聴スキルだけによるものではないけれど。

企業の管理職や医療・保健の専門職を主な対象として研修を行なっている産業医科大学の三島徳雄助教授らは、研修会の参加者はすでに傾聴を実践している(少なくとも部分的には)のだが、実際にどのような聞き方が傾聴であるかを意識していないために、傾聴が思うようにできないだけである、と考えている。

私も、この見解に賛成である。
これらの人たちが、これまで業務をうまくこなしてこられた(時には失敗もあったろが)からには、全く傾聴をしていなかったということは考えられない。単に、それらの行為に、「傾聴というラベル」が貼られていなかったため、自分が傾聴をしていることを意識していなかっただけだと思う。
同じ行為でも、意識して行なうのと、無意識あるいは、たまたま運良く(?)行なうのとでは、結果に大きな違いが出てくる。意識していないと、せっかくの効果的な行為も、必要な時に再現できないからである。

ここで、もう一度、先の三島助教授らの文章から引用する。(括弧内は浅野による補足)
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(管理監督者は)管理監督者という仕事柄、指示、命令、アドバイスなどで部下や周囲の人間を援助するのが普通だと考えている。すなわち、「傾聴することが他者を援助することになる」ということが知られていない。そのために、援助の手段として傾聴することを選択していないだけである。
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こう考えてみると、傾聴を意識的に実践することへのハードルは、私たちが思っているほど実際は高くないのかもしれない。

【参考文献】
三島徳雄・久保田進也・永田碩史 2004 管理監督者の資源を活かした職場のリスナー研修 心身医学,第44巻第12号

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2006年6月 4日 (日)

山は見る場所によって形が違う

 わたしが住んでいる群馬には赤城山があります。この山は、どこから見るかによって、かなり形が違って見えます。

 話し合いや会議などで、メンバーの意見が対立していたり、気持ちがかみ合っていない場面を客観的に見ていると、まるで一つの大きな山の形について、山の向こう側とこちら側で論じ合っているように思われることがあります。
 問題なのは、対立しているメンバー同士が、自分たちが互いに異なる場所から見ていることに気づいていないことです。

 同じ山でも、見る方向が違うと、全く違った姿に見えます。
 きっと同じ気持ちのはずなのに、どうも話がかみ合わないで堂々巡りをしている場合、こんな可能性(見ている角度が違う)に誰かが気づいて指摘するだけで、話し合いが一気に進展することがあります。

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2006年5月31日 (水)

自分の話も「傾聴」してもらうには

傾聴スキル(相手の話をよく聴いたあと、自分が理解した内容が合っているかどうか相手に確かめる)を習って、その有効性を実感すると、とかく日常の生活の中で傾聴をする「役回り」になりやすい。
それはそれで、相手(話し手)にとっては気持ちがいいことなので、いい人間関係が継続する可能性が高い。

しかし、いつも傾聴していると、つまり聞き役に回っていると、疲れたり、たまには自分の言いたいことも思いきり言いたくなることがある。
そんな時は、自分の話を相手に傾聴してもらえると嬉しいのだが……。

しかし、「傾聴が大事です」「傾聴しましょう」と説かれることは多いが、相手に「傾聴してもらいましょう」といわれることは少ない。
いくつか理由はあろうが、その一つとして、「傾聴スキルは受容や共感が関ってくるので難しいから、それらを習っていない相手に要求しても無理である」という暗黙の了解があるのではないだろうか。

その点、〈対話法〉では、従来の傾聴スキルを、あえて受容や共感という概念を使わずに、「相手が言いたいことの要点を相手に言葉で確認すること」というふうに簡略化しているため、難しい理論や概念を知らなくても、だれでも傾聴に近いことができるのである。
したがって、自分の話を相手に「傾聴」してもらいたい場合は、たとえば、「私が言いたいことの要点だと思われるところを、言ってみてもらえませんか(つまり確認型応答)」とお願いするだけでよい。
もし、相手の確認型応答が違っていれば、たとえば、「本当は〜ということを言いたかったのです」と訂正すればいいのである。

 各地の対話法研究会では、参加者同士で〈対話法〉を練習しているが、その会での対人関係がうまくいっている理由として、〈対話法〉の原則、あるいは確認型応答という共通ルールの存在が大きい。また、相手にも聞いてもらえる時間が確保されていることが、一部の人だけが傾聴をして自分のエネルギーを持ち出すことを防ぐために大きな働きをしていると思われる。

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2006年5月28日 (日)

メーリングリストでのトラブル対応における対話法

私が管理者をしていた、あるメーリングリストで、以前こんな経験をしたことがあります。

ある日、メンバーの一人であるSさん(ハンドルネーム)が、メーリングリストの運営方法について、意見を投稿しました。
その内容や書き方が肯定的・建設的なものなら、なんら問題なかったのですが、実際それとは正反対の否定的・攻撃的(本人の意図は違うのかもしれませんが、私にはそう感じられました)なものだったのです。

案の定、メーリングリストは険悪な雰囲気になりました。
Sさんが、「〜について、管理者に説明を求めたい」と書くので、私が冷静に丁寧に説明しましたが、「管理者は逃げている。そんな言い訳では、とうてい納得できない。だれもが納得できる説明を求める」と言うので、私はさらに知恵を絞って説明したのですが、一向に納得してくれません。
そのうち、他のメンバーまでもが論争に参加してきて、終いには収拾がつかなくなりました。

そもそも、「だれもが納得できる説明」というのは、ほとんど不可能なことでしょう。また、説明とか議論というものは、お互いに理解し合おうという気持ちが双方にないと、いくら言葉を尽くしても分かり合えないものでしょう。

困った私は、ふと、「これが〈対話法〉(またはカウンセリング)だったら、どのように進めるだろうか」と考えました。
〈対話法〉の基本は、相手の発言の内容から、相手が何を言いたいのかを受けとめて、それを相手に確認することです。

さて、攻撃的(?)な書き込みをしているSさんは、本当は何を言いたいのだろう。
そこで気付いたのが、Sさんは、

「このメーリングリストをより良くしたい」

という気持ちがあり、本当は、それを言いたいのではないかということでした。
そこで、さっそく私は、

「Sさんは、このメーリングリストを良くしようと思って、たくさんの発言をしているのですね」

というコメントを書き込みました。
すると、驚くことに、その後のSさんの発言が、急に建設的になったのです。

後から考えたのは、最初のSさんの攻撃的(?)な発言に触発されて、こちらが防衛姿勢になってしまい、その姿勢(Sさんには逃げと映った)がSさんを益々刺激してしまったのではないかということです。

メーリングリストで発生するトラブルには様々な原因があるので、「この言葉」を言えば必ず解決するといえるほど単純ではありません。
しかし、この経験から、〈対話法〉の原則(つまり傾聴)を優先した対応が多いに役立つのではないかと、私は改めて思いました。

参考になるブログ記事
ネット荒らし対策でも広がる『傾聴』の技
---ネット上のバーチャルな世界でも「傾聴」が注目されている---

 

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2006年5月20日 (土)

事故とコミュニケーション

さまざまな事故(最も広い意味では人間に関るトラブル)について、コミュニケーションという視点で考えてみる。

認知心理学の観点からさまざまな事故の原因や対策を研究している海保博之氏(元筑波大学教授)は、交通機関などにおける事故の発生には、因果連鎖をたどって いくと、どこかで必ず人が関わってくると指摘している。さらに、事故の原因の一つとして、思い込みによるエラーなど、関係者間の伝達ミスがあると言って いる。

そして、それを防ぐためには、他人との共同思考ができること、つまり、メンバーが自分の思いを、自由に、しかも頻繁にコミュニケーションできる環境が必要であると提言している。(『人はなぜ誤るのか』福村出版より)

上記の観点の重要性は、私たちが日常の体験を通して実感していることと思う。

〈対話法〉の関係では、最近、医療事故や医療過誤によるトラブルの予防を重視した医療関係の団体からの問い合わせや実習指導の依頼が目立つようになってきた。

医療という分野でも、従来から指摘されていたシステムの改善や知識・技術の向上という視点に加えて、対人言語コミュニケーションの重要性に関心が向くようになってきたからだと察している。

私は、「人間関係、特にコミュニケーションは難しい」という、私たちの「思い込み」(?)が、かえってコミュニケーションに関る改善を遅らせているのではないかと考えている。

そこで、「人間が関ることは複雑ではあるけれど、思っているほど難しくはない」と発想を転換することによって、さまざまな問題に対する前向きの対策が活性化するのではないかと思い、〈対話法〉の普及活動を続けているのである。

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2006年5月17日 (水)

共感的理解は、少しくらい違っていてもOK!(1)

カウンセリングを習っている段階では、共感の内容(カウンセラーの応答)が違っていると、講師(あるいは世話人)から(時には厳しい)指摘を受ける。これは、適切な共感的(感情移入的)理解ができるように訓練することがカウンセリング研修の目的であるから当然のことかもしれない。

しかし、実際のカウンセリング場面では。共感の内容が少しくらい違っていても、ほとんど問題ではない(もちろん違いが多すぎると信頼されなくなるので要注意だが)。
まして、日常生活での傾聴場面における多少の違い(失敗)は、まったく問題ではないだろう。むしろ、少しばかりの「失敗」を恐れるあまり、違っている可能性のない「繰り返し」「オウム返し」だけで応じることの方が問題だと思う。

なお、ここでいう「繰り返し」「オウム返し」とは、相手の発言の全部(短い発言の場合)、あるいは一部(長い発言の場合)を、そっくりそのまま(わずかな言い換えも含む)の言葉で言うことを意味する。

たとえば、ある女性が、「私、どうしても友達が欲しいんです。でも、近付こうとすると、いつもサッと逃げられて、その度に傷付いてしまいます。それで、家に帰ってから、自分でも何だかわからないけれど、母親に当ってしまうんです。母親に悪いなあってことはわかっているんですけど……」(浅野良雄・妹尾信孝著『輝いて生きる』から抜粋)と、悩みを訴えたとする。

「繰り返し」「オウム返し」とは、これに対して、単に機械的に、

「傷付いてしまうんですね」
「母親に当たってしまうんですね」
「母親に悪いなあと思っているんですね」

などと応じることを指している。

つまり、私は、「繰り返し」「オウム返し」という用語を、「単に機械的(テープレコーダーの再生か、文字通りオウムのように)に同じ言葉を反復する」という意味で使っている。
(他の人もほぼ同じような意味で使っていると思われるが、「繰り返し」「オウム返し」について詳細に検討している文献がほとんどないのでなんとも言えない)

もちろん、人間は機械やオウムではないから、相手の発言内容を少なからず「理解」した上での応答だろうが、相手にとっては、本当に理解された上での応答なのか、口先だけの応答なのかという判別がつきにくいところが、「繰り返し」「オウム返し」の大きなデメリットの一つである。

ただし、一つだけ例外がある。
「その言葉に、相手にとって重要な感情が込められている」と聞き手が感じた時(これができるようになるには適切な訓練と経験が必要)は、その言葉を変えずに応答することがある。

たとえば、上の例で、
「私、どうしても友達が欲しいんです」
というところに感情が込められていると聞き手が感じた場合、

「どうしても友達が欲しいんですね」

と応答することがある。

しかし、ここで大事なことは、「どうしても友達が欲しいんですね」という言葉を「繰り返し」「オウム返し」したのではなく、その言葉が、相手が言いたいこと(考え・気持ち・感情など)の「要点」だと聞き手が感じたから、その言葉をそのまま使って応答したということである。

この場合、一見「繰り返し」「オウム返し」のように見えるが、そのように応じた理由も目的も、「繰り返し」「オウム返し」とは全く異なっている。

私がカウンセリングを習った、ある先生は、「共感的理解の結果、たまたま相手の言葉の『繰り返し』になることはあるが、はじめから『繰り返しをしよう』と思ってするのではない」と説明していた。

ここでまとめておくと、聞き手の応答において、

■共感的理解の結果が、一見「繰り返し」「オウム返し」に見える応答になることはあっても、
■「繰り返し」「オウム返し」が、共感的理解をしたことにはならないということである。

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2006年5月16日 (火)

コミュニケーション・ミスの原因と対策

〈対話法〉は、信頼関係を築いたり、対人関係をスムーズにするということだけでなく、組織や団体、学校など、多くの人間が「言葉」を交わす場におけるコミュニケーション・ミスの修復や予防にも役立つ。
(信頼関係とコミュニケーション・ミスは大いに関係しているが、また別の機会に書いてみたい)

コミュニケーション・ミスは、コミュニケーション・エラーとも呼ばれる。
どんな意味なのか簡単に言うと、人間がすることに完全はないため、あらゆるコミュニケーション場面において、無意識的(故意を含むこともある)に起こる「言い間違い」や「聞き違い」(それ以外にもたくさんの種類がある)などのことである。
そして、コミュニケーション・ミスを論じる(原因を探したり対策を考えること)場合に重要なのは、基本的に特定の個人に原因や責任があるわけでなく、それは、「コミュニケーション」という行為自体がもっている宿命であるという認識である。

しかし、先にも書いたように、多くの場合、無意識的であり、誰に責任があるわけではないにも関らず、それが一因になって、人間関係が悪くなってしまうこともあるため、コミュニケーション・ミスは放置できない。
そして、〈対話法〉で提唱しているのは、それを「確認型応答」で防ごうとする方法である。

もちろん「確認型応答」だけでは完璧とは言えないので、他にも様々な対策が必要である。

コミュニケーション・ミスの分析については、「小野和俊のブログ」などが面白い。

また、この記事を教えてくれた、「無量大数」のブログも参考になる。

もっと詳しく知りたい人は、たとえば、

■西川一廉・小牧一裕著『コミュニケーションプロセス』二瓶社

などの専門書を参考にしてほしい。

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