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2006年7月31日 (月)

省略されたコトバ

わたしたちが会話をするとき、また文章を書くとき、かならず省略という作業(普段は無意識ですが)をおこなっています。
言わなくてもわかるだろうと思われることは省略されます。逆に、自分が強調したいことや、説明しないと相手がわからないのではないかと思えるところはコトバにします。
 
聞き手は、その省略されたコトバを適当に補いながら話を理解していきます。
そこで、話の省略部分をうまく復元できれば「理解」になりますが、話し手の意図と違ったコトバで補ってしまうと「誤解」になります。

ある市民活動をしている友人からこんな話を聞いたことがあります。

あるとき、遠方から講師を呼んで講演をしてもらったのですが、帰りがけに、その講師が、
「例会にはいつもこれくらいしか集まらないのですか?」
と言ったそうです。

友人は、せっかく遠くから講師が来たのに、参加人数が少なくて気を悪くしたのではないだろうかと、心配そうにわたしに話してくれました。

ここで、友人がなぜそう受け取ったのかを、わたしなりに想像してみます。

友人は、一所懸命に活動をしているにもかかわらず、例会への参加者が少なくて、常々悩んでいました。
それで、講師のコトバ、
「例会にはいつもこれくらいしか集まらないのですか?」に、
「せっかく遠くから来たのに残念だ」
というコトバを補ってしまったのでしょう。

しかし、わたしは、この話を聞いたとき、そうは思いませんでした。
というのは、参加者が少ないことはその講師も了解済みだということを、友人が講演を依頼した時点で、すでにわたしは聞いていたからです。

ですから、講師が言ったコトバは、
「一所懸命に頑張っているのに、残念ですね。だんだんと活動が広がっていくといいですね」
という、友人に対する「励ましのコトバ」だった可能性が高いのです。

講師は、友人に対して、あくまでも人数を聞いただけであり、自分の気持ちは言っていません。つまり気持ちが省略されています。なぜ省略したのか、理由はわかりませんが、「言うまでもなく明白だ」、と思ったか、または、「たんに言いにくかった」のでしょう。

この程度の省略は、わたしたちの毎日の生活のなかで日常茶飯に行なわれます。

ところで、コトバを補うときは、善かれ悪しかれ、聞き手の「先入観」や「心理状態」が影響します。これは、人間のコミュニケーションではやむを得ないことでしょう。

ですから、大事なことは、「コミュニケーションではこのような現象が常に起こっているのだ」ということを忘れないことです。そして、特に重要な対話場面では、相手の気持ちを確認することが必要です。
これが、わたしが〈対話法〉を薦めている理由の一つです。

〈対話法〉でいうところの「確認」は、言い換えれば、
「あなたの話を、わたしはこのようなコトバを補って聞きましたが、それでいいですか?」という確認作業のことなのです。

今回の例でいえば、確認の言葉は、

◎人数が少ないので、残念だと思っているんですね。
◎せっかく来たのに、人数が少なくてがっかりしているんですね。

などになるでしょう。

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2006年7月23日 (日)

コミュニケーションの宿命?

人間というのは、事態にまじめに向き合おうとして文章を書くと、どうしても「きっちりした」文体になりがちです。

場合によっては、相手にとって、それが押し付けと受け取られることさえあります。
まして、メールなどでは、読む時点での気分がたまたま悪かったり、または他の理由で多忙だったりするときはなおさらでしょう。
かといって、あまり丁寧すぎたり、逆に軽い書き方をすると、慇懃無礼とかバカにしていると取られる恐れがあります。

下の例を読んでください。

例:

■きっちりした書き方
「例の件について、詳しい説明をお願いします」(押し付けている感じ)

■丁寧な書き方
「例の件につきまして、詳しくご説明戴けると幸いに存じます」
(下手に出て、かえって相手を操作している感じ……など)

■軽い書き方
「例のこと、もっと詳し〜く説明してねっ!(^_^)」
(事態を軽く見ている感じ、バカにしている感じ……など)

注)カッコ内は、必ずこう受け取られるという意味ではなく、相手が悪くとった場合を想定しての私なりの注釈です。

だいぶ前のことですが、ある文芸の同人誌の中で、先輩が書いた文章に対して私が批評を寄せたことがあります。その人は、その世界では大御所なので、私は精いっぱい心を込めて丁寧な言葉を使いました。

ところが、発表された私の文章を読んだ他の会員から、「あの文章(私が書いた文章)の慇懃無礼な表現が気になった」というような感想をいただきました。
当の本人(先輩)からは、「ご意見をありがとうございました」という言葉をいただいたのですが……。

想定していたのとは全く逆の思いがけない反響に、私は驚きました。

しっかり気を遣って書いても、こんなことが起こるくらいですから、気軽に書いてしまうメールの場合は、もっといろいろなことが起こっても当然のような気がします。

では、これが、印刷物やメールに特有のものかといえば、必ずしもそうでもないと思います。
面と向かっての対話の場合は、また違った種類の難しさがあります。
これは、人によってそれぞれ違った感じ方をするという人間の特性上、どんな媒体においても、ついて回る宿命でしょう。さらに、同じ人でも、時と場合によって違った感じ方をしますから複雑です。

しかし、これらのリスクを抱えながらも、それに見合う、またはそれ以上の価値や喜びを感じられるから、私たちはコミュニケーションをするのでしょうね。

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2006年7月18日 (火)

対立場面こそ練習のチャンス!

 「相手が言いたいことの要点を相手に言葉で確認する」という〈対話法〉の原則が本当に役立つのは、、意見が異なる人と感情的な言い合いになったり、誤解が発端で人間関係がぎくしゃくしはじめた場面です。言い換えれば、多くの人が苦手とする場面で〈対話法〉が役に立つわけです。

 ところが、想像するだけでも分かると思いますが、上に書いたような場面で〈対話法〉を使うことは、実際はかなり難しいことです。
 なぜかと言えば、上記のような場面では、双方が感情的になっているので、「相手の言いたいことを確認する」どころか、相手の言葉を冷静に聞くことさえ難しくなっているからです。

 人間は、感情的になると、相手の言葉が耳に入ってきません。
 〈対話法〉の練習をしてみると分かるのですが、冷静な場合であっても、相手が言いたいことを受けとめることはなかなか難しいのですから、感情的な時はなおさらです。

 しかし、何度も言うように、そのような時にこそ〈対話法〉の原則が役に立つわけですから、いざというとき使えるように練習をしておくのです。それも、できれば、実際の対立場面での練習が重要です。

 〈対話法〉研修会では、はじめから、〈対話法〉が共通の約束事として進められますから、比較的冷静な状態を保ったまま練習ができます。
 しかし、そのような場でも、ときどき対立場面が発生します。それが練習のチャンスになります。

 だいぶ前のことですが、私が講師をしているカウンセリング勉強会で、こんなことがありました。
 私がカウンセリングについて説明をしていると、ある人が、「私はカウンセリングの理論は間違っていると思う」と言い出しました。

 当時の私は、まだカウンセリングの指導を始めて間もないころだったので、突然反論をされて焦りました。そして、なんとか分かってもらおうと、カウンセリングの理論を詳しく説明しました。それによって、なんとかその場は治まったのですが、なんとなく嫌な気分が残りました。

 いま考えると、それは、カウンセリングや〈対話法〉を実際に練習(訓練)する絶好のチャンスだったのです。
 つまり、相手の言葉に反応して説明で応じるのではなく、まずは、相手が言いたいことを確認すべきだったということです。
 また、私が確認するだけでなく、他の参加者の皆さんにも「確認者」の立場になっていただくことも可能でした。
 このように、現実の対立場面で「確認」の練習することは、何よりも大切なことです。

 それ以降も、このように対立する場面を、私は何度も経験しています。そして、それらを確認技法を使ってクリアしてきました。また、参加者の皆さんにも、「確認」が役立つことを目の当たりに体験していただきました。

 あるとき、私がメンバーとして参加していたメーリングリストでトラブル(感情的な批判の応酬)が発生しました。発端は、わずかな言葉の行き違いです。そのうちに治まるかと思って様子を見ていたのですが、それどころか、なんとなく危ない雰囲気になってきました。

 そこで、最悪の状態にならないうちに、私が、「お互いに、自分が言いたいことを書くのを一旦やめて、相手が言いたいことを確認してみてください」と仲介のメールを送ったら、それをきっかけに、即座に議論がかみ合ってゆきました。

 このように、実際の対立間面で〈対話法〉を使ってみることが、最も効果がありますし、一番の練習にもなります。
 慣れないうちは、〈対話法〉に熟練している第三者に仲介してもらうことも必要ですが、慣れてくれば、当事者同士でできるようになります。

 今回書いたことは、〈対話法〉を実際に日常で使えるようになる手順として、たいへん重要なことです。そして、その一つの方法として、研修会などの冷静な場面で、「相手が言いたいこと」をつかむ練習が必要なのです。

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2006年7月14日 (金)

「より」と「から」の使い分け

 突然ですが、次の文章、意味が分かりますか?

例1:

> 私の夢は、月より火星を見ることです。

 最近、私が気になっているのは、本来なら「から」という格助詞を使った方が良いと思えるところにまで、「より」という語句を使う人が多くなってきたことです。

 意味が明確ならまだいいのですが、中には、書いた本人が分かっているだけで、読み手には意味が分からないという文章に出会うことも珍しくありません。

 例1は、おそらく、「月から火星を見る」という意味だということが想像できますが、もしそうなら、「より」より「から」を使ってもらった方が意味がはっきりしますね。

 でも、もしかしたら、この人は月より火星の方に興味があるので、天体望遠鏡を買ったら、まずは火星を見てみたい、という意味なのかもしれませんが……。

 では、例1よりも現実にありそうな次の例はどうでしょうか?

例2:

> この本は人気があるので、12月より多くの部数が発売されることになりました。

 さて、この文章を書いた人は、「12月に発行された部数よりも多くの部数を発行することになった」と言いたいのか、「12月から多くの部数を発行することになった」と言いたいのか。

 従来は、比較的、「より」は than、「から」は from という意味で使い分けがされていたと私は思うのですが、最近、その使い分けが不明確になっています。

 さらに、本来なら「から」と言うべきところにまで「より」が使われるようになっています。これは一つの流行なのでしょうか?

 ところで、「より」は少なくとも2つの異なる意味がありますので、もともと誤解の温床(?)になりやすい語句です。

 法律関係に詳しい知人から聞いた話ですが、法律で使う用語は、出来るだけ誤解が少なくなるように決められているそうです。

 たとえば、「この法律は〜より施行する」とは決してしないで、「この法律は〜から施行する」と表記するとのこと。

 日常の会話や文章では、法律ほどの精確さは要求されないにしても、誤解を防ぐために、「複数の意味をもつ表記」は可能なかぎり避けたいものです。

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2006年7月11日 (火)

JAL「安全啓発センター」見学

今日は、JAL(日本航空)が4月24日に開設した「安全啓発センター」(東京都大田区羽田空港)を、私も会員になっているNPO法人「失敗学会」のメンバーと見学してきた。

このセンターのメインは、1985年8月に起きたJAL123便の事故に関する展示であり、「安全アドバイザリーグループ」の提言に基づき、「実物は重要な教科書」という基本精神にのっとって開設されたものである。

事故の直接原因とされている後部圧力隔壁の実物が、不適切な修理部分の模型を添えて展示されているのは、たいへん貴重なことである。
また、そばで見ると驚くほど大きい垂直尾翼や、客席の一部などの残存機体、また、ボイスレコーダーなどの実物も心に迫ってくる。

安全啓発センターは、社員の安全意識確立を目的として開設されたものだが、一般の見学も受け入れているのは、ありがたいことである。

当ブログの「確認はヒューマンエラーへの対応策」でも紹介した「日本航空グループにおけるヒューマンエラー防止策の再徹底」という改善策とも関連して、安全に対するJALの真剣な姿勢がうかがえる施設であった。
この「姿勢」の効果が現れることを願うものである。

「安全啓発センター」の詳しい案内は、下記のJALのWebサイトにある。
http://www.jal.com/ja/press/0000535/535.html

なお、NPO法人「失敗学会」では、分科会の 『失敗体験ネットワーク』のメンバーが全国の失敗体験に関連する施設を調査して、情報をデータベース化している。
最近、データベースが「失敗体験施設名鑑」として一般公開されたので紹介する。
まだ数は少ないが、貴重な失敗事例を今後に活かす一助になればと思い、メンバー一同、資料集めに奔走している。

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2006年7月 5日 (水)

メールを読むときの注意点

メールを出す際には、できるだけ誤解が生じないように書くことが大切です。
しかし、書く側だけがいくら努力しても、実際には限界があります。

そこで、今回は、メールの読み方、いや、読むときの「心構え」のようなものをお話ししておきたいと思います。

ふつう、文章はきちんと丁寧に読むのがよいといわれますが、メールでは、場合によって、その丁寧さがかえってアダになることがあります。
それはなぜでしょうか。

だれでも経験していることと思いますが、メールを書くときに、十分に推敲している時間がない場合、「必ずしも適切でない語句」を残したまま、あるいは「多少のあいまいさに目をつぶって」送信してしまうことがあります。

しかし、そのメールを受け取った側は、そのつもりになればいくらでも時間をかけて読めるので、じっくり読むほど、不完全な部分が気になってきます。
つまり文章のアラが見えてきます。

そして、不完全な部分や分かりにくいところを、なんとか想像で補おうと努力すればするほど、「書き手の意図とは違った解釈」をしてしまうことがあります。

それもそのはず。もともと、細部にわたる推敲がおこなわれていない文章なのですから仕方ありません。

ですから、

◎メールを読むときは、あまり厳密に(分析的に)読まない心がけ「も」大切です。

ただし、きちんと推敲されたメールの場合は、厳密に読んだほうがいいでしょう。

ちょっと極端な例ですが、たとえば、

「私たちは、たくさんのメールを出しあって、すでに考え方に微妙な違いがあることを確認してきたとはいえないのではないですか……」

のような文章は、読めば読むほど否定にも肯定にも受け取れます。
こんな場合は、その意味を、どちらか一方に決めることは保留にしておきたいものです。

もちろん、ずっとあいまいなままでいいわけではありません。大事な用件の場合は、どちらの意味なのかを、きちんと相手に確かめることが必要です。

そして大事なことは、相手の真意を確かめないまま反論をしたり、自分を否定されたと思って感情的になるのを慎むことです。

つまり、

◎メールによるやりとりでは、ちょっと変だなと思ったら、相手の意図を確かめるまでは、すぐに反応しないことが大切です。

これは、面と向かっての「対話」におけるルールとも共通しています。

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2006年7月 4日 (火)

対話とメール

「対話」あるいは「会話」は、ほとんどの場合、人と人とが面と向かって即時におこなわれるものです。それが書物や手紙などの「書き物」による情報や意見の交換との大きな違いでしょう。

では、E-メール(以降「メール」と略します)はどうでしょうか。私は、「対話」と「書き物」の中間に位置すると考えています。

簡単に言うなら、以下の二つの特徴があるでしょう。

●時間的な違い:メールは、面と向かっての「対話」に比べれば、はるかにゆっくり進行します。しかし、手紙よりは早いです。

●記録性の違い:「対話」は記録に残りませんが、メールは記録に残りますので、「書き物」に近いです。

さらにいろいろなことが考えられます。

「対話」は、瞬間的に出てくる言葉によってやりとりをしており、そこに、さまざまな形で多くの感情が込められます。また、言い間違いも頻繁に生じます。しかし、聞き手である相手の反応が目に見えるので、即座に言い直しが可能です。

メールは「対話」よりもじっくり考えながら書くことができますが、手紙や文書ほどには時間をかけないことが多いので、書き間違いや、わかりにくい表現をしてしまうこともあります。そこには誤解も発生するでしょう。しかし、相手から返事が戻ってくるまでは、間違いや誤解に気づきにくいです。

これらがメールの魅力でもあり、また危険なところでもあるわけです。

こんなことを考えると、メールを書くということは、「対話」と「書き物」の両方を意識したものになるのではないでしょうか。

さらに言うなら、メール交換は、かなり「対話」に近いものだと私は考えています。というか、「対話」としてとらえておいた方が、メールの危険性も、またその対策もわかりやすくなると思うのです。

ところで、メール交換のなかで、どうして誤解やトラブルが起こるのでしょうか。もちろんお互いの性格の違いや心理的な要因も多々あるでしょう。

しかし、単に書き方を少し工夫するだけで、未然に防げることもあります。またそういう方法を知っていれば、今まで以上に気軽に楽しくメールを書けるようになります。

また、メールには、実は書き方だけでなく、読み方にもコツがあるのです。〈対話法〉において、私が「聞き方」を強調するのと同じく、メールの場合も、意外と読み方が大切なのかもしれません。(次号につづく)

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